秋山、清原、デストラーデに繋いだ技 西武黄金期の“職人”が刻んだバントの価値
西武時代「2番・右翼」で強力打線を担った平野謙さん、変わってきたバントの価値
中日、西武、ロッテで活躍した平野謙氏は現役生活19年の中で歴代2位の451本の犠打を刻んできた。元々は投手でウエスタン・リーグで勝利も飾ったこともある平野氏は野手転向後、“職人”としての道を歩き始めた。88年の西武移籍後、5度のリーグVに4度の日本一に貢献。黄金期を支えた平野氏にとって「バント」は生きていくための手段だった。
球史に名を残す職人がバントに取り組んだ大きな理由は2つあった。シンプルに聞くと、明快な答えが返ってきた。
「生きていくためにやっていたのがバントだと自分は思っています。やることによって、チームが勝つ。勝つために自分の仕事をやる。そういうことですよね」
愛知・犬山高から名商大を経て、1978年に「投手・平野」としてプロの世界に飛び込んだ。学生時代に右肘に死球を受けた影響で状態は万全にはならなかった。1年目の終盤にウエスタン・リーグで2勝したが、2年目の春になり、外野手転向の打診を受けた。
「投手から野手に変わって打撃に自信もなかった。1番の田尾安志さんがよく塁に出ていたし、首脳陣からも下手に打ってアウトになるぐらいだったら、ランナーを進めてくれ、と。そういう中で一つの手段として、バントという仕事をドラゴンズは僕に与えてくれた」
平野氏は1988年に西武へ移籍。常勝軍団の礎となった。チームが変わっても、森祇晶監督から求められた勝つための役割は中日時代と変わらなかった。
「ライオンズは打線が確立されていたので、役割がはっきりしていた。そういうチームで2番を任されて、後の3番、4番、5番の強力打線のところに、どういう形で繋ぐかという部分、しっかりとバントで送ることによって、自分もゲームに出ることができました」
当時の西武黄金期には石毛宏典や辻発彦が1番に入り、3番・秋山幸二、4番・清原和博、5番には強力助っ人のデストラーデや鈴木健といった強打者が並んでいた。ここで自分が貢献できることは、バントや外野守備の部分と考えた。
「試合に出ないとやっぱり自分の好きな守備ができない。そういう意味では僕は生活手段としてバントを磨きましたね。特に西武に行ってからというのは自分の技をさらに磨いたというか……」
キャンプでも全体練習が終わった後にバントの練習を繰り返した。バットの角度やスピンのパターンを考えたり、白線で丸を書き、その真ん中にボールを入れたりする練習に没頭していた。自分が生活をするため、大好きだった守備に就いて試合に出場するため、平野氏が生きていく道として選んだのがバントだった。
それでも移籍1年目の1988年は130試合に出場し、石毛や秋山、清原、辻、助っ人のバークレオらよりも高い打率.303をマークしている。バントだけでなく、状況を見分けてバットをコントロールする能力は高かったことを証明している。