野村、衣笠、長嶋…野球の華“ダブルプレー”の歴史 通算併殺数は強打者ばかり
左打者の最多併殺打は駒田徳広の229
本塁打歴代2位の野村克也をはじめ、右の強打者がずらっと並んでいる。強打者は打球が速い。強いゴロが内野手の守備範囲に飛んで併殺になることが多かった。ある意味で併殺打は「右の強打者」の勲章ともいえるだろう。左打者の最多併殺打は11位タイの駒田徳広の229だ。駒田は横浜時代の1994年にはセ・リーグシーズン最多記録の29併殺打を記録している。パ・リーグ記録は1989年、オリックス、ブーマー・ウェルズの34併殺打だ。ブーマーも右打者だ。
20世紀に入ると内野手が連携して併殺を取るプレーが、野球の見どころの一つになった。1900年代初頭、シカゴ・カブスの遊撃手ジョー・ティンカー、二塁手ジョニー・エバース、一塁手フランク・チャンスは、目にも止まらない併殺プレーを次々と成功させて「10万ドルの内野陣」と呼ばれた。3人はともに野球殿堂入りしている。
日本でも1リーグ時代の巨人、千葉茂、白石勝巳、昭和中期の阪神、鎌田実、吉田義男、巨人V9時代の黒江透修、土井正三など、併殺を量産してファンを沸かせた名二遊間コンビがたくさんいた。21世紀以降でいえば、中日の荒木雅博、井端弘和の「アライバコンビ」が屈指の名コンビだと言える。この2人が初めて二遊間コンビを組んだのは2002年のことだったが、2004年から6年連続でアライバコンビがゴールデングラブ賞を独占。毎年90個近い併殺を記録。この絶対的な守備力が、落合博満監督率いる中日ドラゴンズ躍進の大きな力となった。
1950年代に名コーチとして知られたアル・キャンパニスによって書かれた「ドジャースの戦法」には、ダブルプレーは「遊撃手がダブルプレーの球を二塁近くでとったときには、二塁手の顔をめがけてグラブをはめないほうの手でトスする」と書かれている。また走者をかわして一塁に送球する際は「二塁の内側に回って投げる」としている(いずれも内村祐之訳)。
このドジャースの戦法は、V9時代の巨人に取り入れられ、以後のNPBの野球の教科書となった。日本の内野手たちは、このセオリーに従って併殺を処理してきたが、現在のMLBでは、グラブトスはもちろんのこと、逆方向の態勢からのジャンピングスロー、ベアハンドでの送球など、さまざまなスタイルの併殺プレーが見られる。セオリーにとらわれず、自由な発想で新しい併殺プレーを次々と生み出しているのだ。
NPBでも近年は、アクロバティックな併殺プレーが見られるようになった。ダブルプレーも日々、進化しているのだ。
(広尾晃 / Koh Hiroo)