田中幸雄氏がイチローらと争った打点王 無失策記録の裏にいた“陰の恩人”

日本ハムで活躍した田中幸雄氏【写真:荒川祐史】
日本ハムで活躍した田中幸雄氏【写真:荒川祐史】

左翼コンバート時に見ていた広瀬哲朗氏の存在が大きかった

 日本ハム一筋22年間、主に強打の遊撃手として活躍しミスター・ファイターズの異名を取った田中幸雄氏が、自身の野球人生を振り返る。1995年には、あのイチロー氏らと3人で打点王のタイトルを分け合い、守っては遊撃手339守備機会連続無失策のパ・リーグ記録を樹立した。実は、打撃タイトル獲得と記録樹立の両方を通じ、“陰の恩人”の存在があった。

 タイトルと記録という形で努力が花開いた1995年へのアプローチは、2年前の93年に始まっていた。同年、球団常務で、田中氏にとっては90年オフに結婚した際の媒酌人の大沢啓二氏が、9年ぶりに監督の座に復帰。前年に右肩を痛めてわずか1試合出場にとどまっていた田中氏は、遊撃から左翼へのコンバートを命じられた。

 代わりに遊撃のレギュラーに抜擢されたのは、それまで代走や守備固めとしての出場がほとんどの広瀬哲朗氏だった。田中氏は大沢監督から「おまえ、レフトから広瀬の守備を見て勉強しろ」と言われた。「広瀬さんのショートの守備は、めちゃめちゃうまかった。守備範囲は広いし、アクロバティックでかっこいい。今でいえば、広島の菊池(涼介内野手)みたいなタイプ。あの反射神経はちょっと、尋常ではなかったです」と称賛する。同年から広瀬氏が2年連続でゴールデングラブ賞を獲得したのも、納得だった。

 そして1995年、監督は阪急(現オリックス)を常勝軍団に育てた上田利治氏に替わる。田中氏は3年ぶりに遊撃手復帰。広瀬氏は三塁へ回った。レフトから広瀬氏を見ていた効果かどうかは定かでないが、田中氏の内野守備は2年間のブランクを経て、見違えるように安定感を増していた。

 田中氏はもともと、プロ2年目の1987年、19歳にしてショートのレギュラーに抜擢されたが、リーグワーストの25失策を犯し“送球イップス”に。猛練習でなんとか克服したものの、時おり送球の不安が顔をのぞかせていた。しかし、3年ぶりにショートに舞い戻った95年には、6月7日から9月21日にかけて339守備機会連続無失策のパ・リーグ記録を樹立する。

「いったん外野に行ったのがよかったのだと思います。ショートの場合、一塁へ悪送球したら、その後ろには誰もいない。捕手がバックアップに走りますが、ほとんど間に合わない。その点、外野の場合は、中継の内野手への送球がそれても、後ろに野手がいる。安心して送球しているうちに、腕を振って投げる感覚がつかめてきて、指先の神経がまひすることもなくなりました」。同年から2年連続でゴールデングラブ賞に輝いた。

 一方、打点王争いは熾烈だった。田中氏は先に全日程を終了したオリックスのイチロー氏、ロッテの初芝清氏の80打点に1打点足りないまま、シーズン最終戦を迎えた。

 そして「レフト線にタイムリーを打って、トップに並んだと記憶しています。その時、二塁からホームインしてくれたのが、広瀬さんでした」と振り返る。「去年、その広瀬さんとお目にかかる機会があって、『おれはあの時、絶対にホームに生還しておまえに1打点を挙げさせようという心に決めていた』と聞きました。ありがたいことですよね……」と感謝する。ここでも広瀬氏が重要な役割を果たしていたのだった

 ちなみに、打点王を分け合ったイチロー氏はこの年、首位打者、最多安打、最高出塁率、盗塁王と合わせて、NPB史上唯一の5冠に輝いた。25本塁打も、本塁打王を獲得した当時ダイエー(現ソフトバンク)の小久保裕紀氏にわずか3本差だった。田中氏はイチロー氏について、「もし彼が本塁打王を取りたいと思って、そればかり狙ったら、間違いなく取れていたと思いますよ。打率は少し下がったでしょうが、それでも3割は絶対打てたはずだし、毎年30発以上打てたと思う」と言う。試合前に見た、イチロー氏のフリー打撃が衝撃的だった。「8割くらいが柵越えですよ。ポコンポコン、スタンドに入れていました。ほとんどバットの芯を外さなかったですから」と証言する。

忘れない周囲への感謝、高田繁監督が使い続けてくれたのも大きい

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