高木守道さんは「セオリーより本能の人」 弟分が語る“史上最高の二塁”と呼ばれる訳
3年間現役を共にした平野謙さんが思い出す40年以上前の衝撃プレー
もう40年以上前のことで、時期ははっきり覚えていない。場所は広島市民球場。2軍がデーゲーム、1軍がナイターで試合をする「親子ゲーム」だったはずだ。1978年に中日に入団して駆け出しだったころの平野謙氏は、スタンドから目撃した些細なワンプレーをいまだに忘れられない。“史上最高の二塁”と呼ばれた偉大な大先輩の姿が、目に焼き付いている。
左翼線に長打コースの大きな打球が飛んだ。その直後、左翼手からの送球を中継するカットマンとして入った背番号1の高木守道さんがいる位置に驚いた。「気がついたらレフトの定位置くらいまで走って寄ってきていて。『えっ?』って」。30代後半を迎えていた大ベテランがグラウンドで走り回り、躍動する姿はとにかく強烈だった。
1980年限りで引退した高木さんとは3年間だけ現役生活が重なった。「あまり人のプレーに興味があるタイプではなかったし、ドラゴンズの選手もそこまで知らなかった」という平野氏だったが、「ミスタードラゴンズ」のプレーが並外れているのはよくわかった。「セオリーというより、本能の人。ゲームの中での臨機応変な決断力はすごかった」。身長174センチと恵まれない体格を全く感じさせないどころか、グラウンドではえらく大きく見えた。
投手として入団し、2年目から野手に転向した平野氏。現役のころからコーチを兼任していた高木さんとは「指導者と選手」という付き合いの方が長かった。
「高木さんは、すごく簡潔でシンプルな教え方だった。『なんで打てないんだ? ボールが来たらこうやってバット出せばいいやんか。打球を転がすなら、バットを上からボールに叩きつければいいんや』と(笑)」
群を抜いた天才肌。打っては、1978年に球団史上初の2000安打を達成。走っては3度の盗塁王。守っては、名人芸の域まで達した遊撃への「バックトス」で魅了した。実働21年で通算2282試合出場。打率.272、2274安打、236本塁打、813打点、369盗塁を積み重ね、ベストナインにも7回輝いた。