長嶋監督が直電して病院に“懇願”…元巨人・篠塚氏の入団左右した高校時代の入院秘話
導入直後の金属バットを使わなかった理由
読売巨人軍史上屈指の好打者で通算1696安打を放ち、守備でも名二塁手として鳴らした篠塚和典氏(1992年途中までの登録名は篠塚利夫)が、自身の高校時代を振り返った。千葉・銚子商2年の時、4番・三塁手として春夏連続で甲子園出場を果たし、特に夏は全国制覇を達成。一方で、ケガと病気に苦しんだ高校生活でもあった。
銚子商進学当時、篠塚氏には甲子園出場と同じくらい重要なテーマがあった。「高校卒業後すぐにプロ野球へ行く。そのためにアピールする」ことだった。「小学6年の時、野球部の監督に『シノ、おまえプロに行けるよ』と言ってもらった。そのひとことで決めてしまったんですよ」。
入学直後、1年生にしてレギュラーの座を獲得した篠塚氏だったが、夏の大会直前、走塁練習中に左肘を骨折。甲子園に出場しベスト8入りしたチームの中に、その姿はなかった。
2年生に進級するとチームの主軸となり、1年先輩のエースで中日にドラフト1位で入団することになる土屋正勝氏の活躍もあって、春夏連続で甲子園出場。夏には、決勝で山口・防府商を7-0で下す圧勝ぶりで全国制覇を果たした。この大会から高校野球に金属バットが導入されたが、篠塚氏はあえて木製で通した。「当時の金属バットは、グリップとヘッドの太さが同じくらいの代物で、自分のスイングに合わなかったという理由もあるけれど、やはりプロに行くという目標があったから、金属は使いたくなかった」と言う。