「ルーキーがサングラスかよ」苦言もどこ吹く風… “ヒゲの齊藤”が明かす豪快人生
大洋、横浜で17年間活躍…トレードマークの口ヒゲを生やしたきっかけは?
かつて神奈川県川崎市を本拠地としていた「大洋ホエールズ」、1978年の横浜市移転後の「横浜大洋ホエールズ」、93年に改称された「横浜ベイスターズ」。DeNAベイスターズの前身となるチームの変貌とともに、17年に渡って活躍した齊藤明雄氏。時にはエース、時には抑えの切り札としてファンの心を掴んだ。自身の奮闘ぶりや個性的な仲間たちとの思い出は、語り切れないほど。第1回は、口ヒゲを蓄え「ヒゲの齊藤」とファンに親しまれるまでの裏話などを明かした。
1976年ドラフト1位で大商大から大洋入りした齊藤氏は、型破りな新人だった。1年目の自主トレ、静岡・草薙での春季キャンプ、オープン戦を通じ、常にサングラスをかけていたのだ。昼間はレンズの色が濃く、ナイターなど夜になると色が薄くなる「調光グラス」だった。
もともとは、大学日本代表で同僚になった1歳上の中畑清氏(当時駒大、その後巨人)がかけていたのに憧れ、大学時代から愛用していた。とはいえ、プロの世界で1年目からサングラス姿とは前代未聞。周囲やキャンプ地を訪れる審判員などから「ルーキーがサングラスかよ」と苦言を呈されることもあったが、本人はどこ吹く風。野武士集団と呼ばれ、個性派ぞろいだったチームにも、それを許す雰囲気があった。「大洋なら“あり”でしょ」と笑う。
結局、公式戦開幕前になって「サングラスや眼鏡をかけてプレーするのは危険」と、当時の別当薫監督からメーカーを紹介され、コンタクトレンズに替えた。その数年後、調光グラスに代わって齊藤氏のトレードマークになったのが、口ヒゲである。
きっかけはプロ4年目の80年、米アリゾナ州メサで行われた春季キャンプ。「40日間ほど向こうにいて、日本人と顔を合わせる機会も少なかったから、当時エースの平松(政次)さん、野村(収)さん、僕、1歳下の遠藤(一彦氏)の4人で、キャンプ期間中にヒゲを剃らなかったらどれくらい伸びるものなのかという話になって、一切剃らなかった」。ヒゲが顔中伸び放題となった齊藤氏が、Tシャツ姿でメサ市内をランニングしていると、日焼けした肌も相まって、現地住民から「アー・ユー・メキシカン?」と声をかけられることもあった。