燕・高津とミカンを握りシンカー談義 潮崎哲也氏が明かす“魔球”と過ごした15年

関節が柔らかく、中指と薬指の間が異常に開く【写真:宮脇広久】
関節が柔らかく、中指と薬指の間が異常に開く【写真:宮脇広久】

潮崎氏のシンカーを見た野村克也氏が高津臣吾氏に言った「おまえも投げられないか?」

 投げ方は、ストレートの場合は掌を捕手方向へ向け、ボールの真後ろを押すのに対し、シンカーは手の甲を上へ向けたまま、ボールを引っ掻くようにして強いスピンをかける。「卓球でドライブをかけるイメージです」と例える。

 92年の日本シリーズでは抑えを務め、ヤクルトを下しての日本一に貢献。この時、敵将のヤクルト・野村克也監督は、潮崎氏と同じ右のサイドスローの高津臣吾氏に「おまえも投げられないか?」とシンカー修得を命じた。結果的に高津氏が日米通算313セーブと活躍する上で、これをきっかけに覚えたシンカーは欠かせない武器となった。

「僕と高津では、同じシンカーでも軌道が違っていたと思います」と潮崎氏。「同い年の高津とは、引退する直前まで接点がなかったのですが、ある日、六本木の飲食店で偶然出会って、その場で“シンカー談議”をしました」と満面笑みで振り返る。もちろん店にボールがあるはずがなく、ミカンを握って語り合ったという。

 時には“魔球”を苦もなく打ち返す打者にも遭遇した。「当時近鉄の新井宏昌さん(左の巧打者で通算2038安打)など、上下動の少ない、フルスイングしない打者にはよく打たれたイメージがあります。逆に、マン振りする外国人選手には有効でした」と振り返る。

 52歳となった潮崎氏は「魔球? 自分ではそんな風には全く感じていませんでしたよ。投げ始めた頃は『ただの遅い球』という感覚で、実戦を経ていくうちに、『あれ? この球、打たれないな』とは思いましたけど」と事もなげ。だが、「僕自身、子供の頃は野球漫画やアニメで、いろいろな魔球を見ていた世代です。『侍ジャイアンツ』の分身魔球(ボールが激しく揺れるため、分身したように見える)とか、こんなのありえないと思いながら楽しんでいました」と語るのと同様に、子供を含む野球ファンたちが潮崎氏のシンカーに胸を躍らせた。

 そして、高3の時に覚えたシンカーは、潮崎氏の野球人生を大きく変えた。次回は、魔球誕生の瞬間について語ってもらう。

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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