伝説の小部屋「野球教室」とは… 高橋慶彦氏が語る広島市民球場の思い出

広島などで活躍した高橋慶彦氏【写真:編集部】
広島などで活躍した高橋慶彦氏【写真:編集部】

「野球教室」という名の小部屋があったのはネット裏観客席の下

 1957年7月から2009年3月まで広島東洋カープの本拠地だった旧・広島市民球場。老朽化とマツダスタジアムの建設に伴い、2012年2月に解体され、現在はライトスタンドの一部を残すのみだが、平和記念公園に程近いロケーションで広島のシンボルの1つだった。その広島市民球場のネット裏に、通称「野球教室」と呼ばれる小部屋があったことを知るファンは、それほど多くないだろう。この一室が、昭和50年代にカープ黄金期を築く上で重要な役割を果たした。当時「1番・遊撃手」として活躍した高橋慶彦氏が振り返る。

 広島が球団創設26年目にして悲願の初優勝を果たした1975年、高卒プロ1年目だった高橋氏は専ら2軍暮らしだったが、この「野球教室」で1軍の試合を日常的に目の当たりにしていた。

「野球教室」があったのはネット裏観客席の下。捕手や球審の真後ろよりやや三塁側で、かぶりつきで試合を見ることができた。塹壕のように掘られた“半地下”で、グラウンドレベルから首だけ出して見上げる格好。並びにはテレビやラジオの放送ブースがあった。

 高橋氏は「だから、プロ野球実況中継の決まり文句の『バッター打ちました、大きなフライ、外野手の足が止まった』というセリフは、市民球場で最初に使われるようになったと言われている」と笑う。実況アナウンサーの目の高さに選手の下半身があったため、自ずと足の動きに目が行ったというわけだ。

1軍のレベルを日常的に体感できたのは「凄く良かった」という思い出

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