伝説の小部屋「野球教室」とは… 高橋慶彦氏が語る広島市民球場の思い出

1軍のレベルを日常的に体感できたのは「凄く良かった」という思い出

 当時、2軍のウエスタン・リーグはそれぞれの本拠地球場で、1軍戦の試合前にデーゲームで行われることが多かった。広島の2軍選手は、広島市民球場で試合があった日には、そのまま1軍の練習の球拾いなどを手伝い、「野球教室」に集まって1軍のナイターを5回くらいまで観戦。それから寮に帰り夕食を取るのが日課だった。

「すごいなあと驚きながら見ているしかなかったけれど、1軍のレベルを日常的に体感できたのはすごく良かった。スタンドから見るのとは臨場感が違ったしね」と高橋氏。2軍選手の目には、カクテル光線に映える純白のボールがまぶしく見えた。「ヤクルトの松岡弘さんのストレートは物凄く速かった。阪神の田淵幸一さんの打球は高い放物線を描いて、照明塔の高さを超えるといったん消え、再び現れる。そういう1軍の光景を見ることもできた」と振り返る。

「『野球教室』という名前の由来は知らない。俺が入団した時には既にそう呼ばれていた。ただ、球場の設計段階からちゃんとそこにあったと聞いているよ」とも。広島は1950年の球団創設以降、四半世紀にわたって低迷を続け、Aクラスは3位となった1968年の1度だけというありさまだった。それでも、1957年に中国地方初のナイター設備設置球場として開場した広島市民球場に、こうした若手の勉強の場を設け、1975年の初優勝とそれに続く黄金期を担う選手を育てていったのだった。

 高橋氏は「比べる対象があって初めて、自分のプレーのレベルがわかる。2軍選手だけでやっていたらわからない。1軍の試合を目の当たりにすることで、自分たちに何が足りないかを実感し、なんとかそのレベルまで上がろうとするから成長も早くなった」と語り、「やはり井の中の蛙では上達しない」と続けた。「野球教室」は“井の中”の2軍選手たちにとって、“大海”へ向かって開かれた窓だった。

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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