鈍足の小学時代、退学寸前の高校時代…“ハマの番長”DeNA三浦新監督が成り上がるまで
高田商高1年冬に野球人生最大の危機「遊びたい気持ちが爆発した」
橿原市に隣接する大和高田市の高田商高に進学後、1年冬に野球人生最大の危機を迎えた。野球部を退部、さらには学校も退学すると言い出したのだ。「仮病を使って野球部の練習をサボった。そのうちに授業の方も午前中だけ受けて早退、3時間目まで受けて帰る、1時間目だけで帰る……となっていった」。小学生時代から、シニアリーグに所属した中学時代まで、土日や夏休みを含め野球漬けの生活を送ってきたため、「野球部以外の友達がうらやましく見えた。遊びたい気持ちが爆発した」と明かす。
結局ぶらぶらと時間を潰してみても、充実感は得られなかったが、「野球部員の前で『辞める』と啖呵を切った手前、素直に戻ることもできなかった。変なところで突っ張っていた」。このままなら、“ハマの番長”が球界に存在することはなかった。「野球部の仲間や学校の先生たちが必死で引き戻してくれたからこそ、野球を続けることができた」と、感謝してもし切れない思いを吐露する。
その後は人が変わったように練習に打ち込み、制球力の良さで台頭。「高2の冬の進路相談で、初めて人前でプロ野球選手になりたいと口にした」。甲子園出場には届かなかったが、1991年ドラフト6位で横浜大洋(現DeNA)に入団したのだった。
プロでは、低めに集める粘りの投球で長年エースの座に君臨。通算172勝(184敗)を積み重ねたスタイルは、不遇のアマチュア時代に培われたのかもしれない。
指揮官としては「選手とも球団スタッフともコミュニケーションを取ることが大事。日頃から話しやすい環境を作りたい」と対話型をアピールしている三浦監督。今後、選手たちも大いに“昔の俺”を語ってほしい。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)