名将・水原茂氏に憧れて… “新庄劇場”の仕掛け人が語るプロ野球人生
駒大から熊谷組入社内定も、東映入団を決断
日本ハムの北海道移転時にチーム統轄本部長を務めた三澤今朝治氏。現役時代の1969年に代打で放った26安打は、2007年に真中満氏に塗り替えられるまで日本記録だった。東映フライヤーズから日拓ホームフライヤーズ、日本ハムファイターズと所属球団の身売りを経験した三澤氏が、自身のプロ野球人生を振り返った。【石川加奈子】
駒大3年の秋に東都大学リーグで首位打者を獲得した三澤氏は、社会人の熊谷組への入社が早々と内定した。「(長野県の)松本にあった実家の親父の建設業も面倒を見るから来てくれと言われて、3年秋に決まっていたんです」。だが、4年春にも首位打者を獲ると、プロも動き出した。ドラフト制度のなかった時代。西鉄と中日からの誘いは断ったものの、4年秋のリーグ戦後に東映から声がかかると、気持ちがグラリと動いた。
「当時、水原(茂)さんが監督をされていて、大好きなチームだったんです」。大学の隣にあった駒沢球場を本拠地にしていた東映の試合を毎晩のように観に行っていた。時には塀をよじ登って観戦するほどの熱狂ぶり。「その前年(1962年)に阪神を破って日本一になっていましたし、水原さんのことはジャイアンツ時代から憧れていました。その人の下で野球をやれるなんて幸せだなと思いました」と東映入りを決意する。
だが、両親も野球部関係者も全員猛反対だった。2年後に行けばいいという助言もあったが、三澤氏はこのチャンスを逃すつもりはなかった。「泣いて親を説得したのですが、熊谷組は絶対にOKしてくれないのです。熊谷組に日参して、部長と監督に会いに行きました。最初は会ってもくれませんでしたが、そのうちに『お前がそんなに行きたいならいいよ』と折れてくれて、円満解決で東映に入りました」と振り返る。大学4年生にして、一人で粘り強く周囲を説得した経験は、引退後の長いスカウト生活に役立ったに違いない。
当時の東映には、張本勲外野手、土橋正幸投手ら個性的な選手が揃っていた。「西園寺(昭夫)とか吉田勝豊とか暴れん坊で有名でした。僕が入った時は移籍していたんですが、山本八郎というケンカっ早いキャッチャーもいたりして、野武士的な魅力のあるチームでしたね」と三澤氏は懐かしむ。