逆境が駆り立てる闘争心「沸々と…」 終戦後の原風景を胸に…女子野球発展へ続く奮闘

花咲徳栄で野球部監督就任要請も…「グラウンドもないし、校舎も建設途中」

 そんな思いとは裏腹に、野球との縁は続く。埼玉栄では経歴を買われ、野球部コーチを務めることになった。1982年に開校した花咲徳栄への異動時には野球部監督就任を要請された。「学校ができる場所に行くとグラウンドもないし、校舎も建設途中で全く何もないところでした。それが自分の中で広島の原風景と重なって、なんとかしてやりたい気持ちが湧いてきました」。初代監督を8年間務め、6年目には春の県大会で準優勝するまでになった。

 その後、空手道部監督を経て、2001年に女子硬式野球部監督就任を打診された。「1週間悩みました。気になって、練習場を見に行ったら、グラウンドも小さくて、部員も少なくて、素人ばっかりで、キャッチボールすらおぼつかないような状況。そこでまた沸々と湧いてくるものがあり、引き受けました」と言う。創部4年間で練習試合を含めて1勝もできなかったチームを監督就任から5年経った2006年春の選抜大会で優勝させ、夏の大会では2006~12年まで7年連続決勝進出と常勝チームに育てた。

 教え子から大学にもチームをつくってほしいと請われ、2007年には平成国際大女子硬式野球部を立ち上げた。さらにクラブチームの「ハマンジ」と「ハマンジジュニア」も結成。濱本氏の愛称である「ハマンジ」がチーム名になっていることからも、教え子たちから慕われていることがわかる。

 一貫した指導方針は、野球を通した人間形成だ。「目標は日本一、世界一。ただし、目的は人間形成という形は貫いています。ただ勝てば良いということではなくて、自己の成長と他者への貢献ができる人間じゃないといけなということを常に訴えています」と語る。

 国内の普及だけではなく、いち早く海外にも目を向けた。選手の有志を連れて香港でクリニックを3度行い、一昨年は台湾にもチームを引き連れて遠征に行った。そこにあるのは、四津氏の思いだ。「日本の四津浩平が築き上げたものを今度はアジアに広めていけたらと思っていました」と自費で普及活動を続けている。

 四津氏の遺言通り、女子硬式野球の物語に関する本も3冊書き上げた。それでもまだ濱本氏にはやるべきことが残っている。それは夢ではあるが、NPB傘下の女子プロ野球リーグ創設だ。

(石川加奈子 / Kanako Ishikawa)

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