180通の履歴書で開いたMLB傘下の日本人監督 ボイラー室に寝泊まりした壮絶過去

MLB30球団へ履歴書を通算180通送付、返事は3通

 モントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)が米フロリダ州に開設していたアカデミーに入学し、6か月を過ごしたことが出発点。そこでスカウトされ、ニュージャージー州の短大に進学した。卒業後、カナダ独立リーグのロンドン・モナークスに入団。プロ野球選手生活をスタートさせたが、実はトライアウトでは不合格を通告されていた。それでも「テスト生にしてくれ」と通い続け、チームが根負けした形だった。

 その後、豪州、米国の独立リーグを渡り歩き、計7球団で内野手としてプレーしたが、メジャーリーガーになる夢は果たせず、27歳で断念し帰国した。3年間ほどは都内で英会話スクールの営業職に就いていた。

 一時は野球から離れていたが、胸にはくすぶり続けているものがあった。31歳にして「自分の気持ちに区切りをつけるため、記念受験のつもりで」と再渡米。トライアウトを受けた。そこで米独立リーグのビクトリア・シールズの監督から「コーチをやってみないか」と声を掛けられたのだから、人生は何が起こるかわからない。これをきっかけに、独立リーグ5球団のコーチを歴任することになった。

 当初は薄給で、選手がシェアしている一軒家のリビングに寝泊まりさせてもらった。若い選手たちが騒々しくて眠れず、1畳ほどのボイラー室に寝たこともある。「蜘蛛の巣が張っていたのを掃除して、マットレスを入れました。扉が閉まるので、最低限のプライバシーが保たれました」と笑う。過酷な環境にしか聞こえないが、本人は「僕は全然メンタルをやられなかった。なぜなら楽しかったので。住むところなんてどうでもいい。グラウンドへ行けば野球があって、あらゆることを教えてくれるコーチがいましたから」と、どこ吹く風だ。

 2016年、翌17年にはソノマ・ストンパーズで監督を務め、所属リーグで最優秀監督賞を受賞。一方で、最高峰のMLBに対し“就活”を怠らなかった。2月の春季キャンプ期間中には、レンタカーを借りてメジャー球団のキャンプ地を回り履歴書を渡した。「最初は採用情報もないし、誰に渡せばいいのか分からない。受け取ってもらえないことも多く、球場のもぎりの方に押し付けたこともあります」と明かす。やがて、履歴書の送付先を調べ上げると、毎年メジャー30球団に2通ずつ、マイナーの統括責任者とスカウティングディレクターに送りつけるようになった。「通算180通出しましたが、返事が来たのは3通でした」

開かれる「日本人初のメジャーリーグ監督」への道

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