「町を出ないといけない」震災翌日の母からの電話 楢葉町で暮らす元オリ赤間謙さん、11年前の記憶

「2011.3.11」と刺繍された赤間さんのグラブ【写真:高橋昌江】
「2011.3.11」と刺繍された赤間さんのグラブ【写真:高橋昌江】

グラブに「2011.3.11」や「がんばっぺの」の刺繍を入れてマウンドに上がった

 母親と電話がつながったのは翌12日。両親、兄2人、祖父母の無事が分かって安心した。だが、それも束の間。「これから町を出ないといけない」と告げられた。全町民へ避難指示が出されたのだ。“放射能”への理解が追いつかず、「どういうこと?」と状況を飲み込めなかった。「その時は、こんなに長く帰ることができないなんて想像していないですからね。僕はすぐに戻れるだろうと思っていましたけど、そんなに甘いものじゃなかったですね」。

 4月22日からは許可なく町内に立ち入ることができなくなった。家族はいわき市や埼玉県、千葉県などを転々とし、いわき市の仮設住宅に入ってからは、そこが帰省先になった。避難指示が解除され、町民が楢葉町に戻れるようになるまで要した時間は4年半。地震で半壊した生家は住める状態ではなく、解体された。

「野球ができるのは、当たり前じゃない」。震災以降、使用するグラブには「2011.3.11」の刺繍を入れてきた。「がんばっぺ」と入れたことも。一時は退学も考えた大学、3年間所属した鷺宮製作所、そしてプロと、ボールをキャッチする左手にはいつも故郷があった。「つくづく思います。今の生活が当たり前じゃないんだなって。人は慣れると当たり前になってくるじゃないですか。でも、そうじゃないんだ、ということはすごく感じますね」。

 主を失った家屋や車、人々の生活を支えていた店舗は11年前のあの時から時計の針が止まっている。第1原発がある大熊町の一部では今も「ここから自転車、歩行者、通行できません」と注意書きされた看板が並ぶ。立ち入れない場所もある。「そういうのを見ると、ここ楢葉町も時間はかかりましたが、いろんな人の思いがあって、ここまできれいになった。僕はこういう風に出来上がっている状態で帰ってきたので、その苦労を軽々しく言えないんですけどね」。

昨年1月から楢葉町のスポーツ協会に勤務する

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