過去に世界3位も人数不足で7年休部…西武・平良を生んだ中学硬式チームの“復活”への道

友利監督も同チームOB、八重山商工高で春夏甲子園出場

 決して簡単ではない道と知りながら、「もう一度、八重山を強くしたい」とチーム再始動に一肌脱いだ友利監督は33歳。中学でも高校でも大舞台を経験しているが、決して「野球が好きではなかった」というから興味深い。

 八重山では、大嶺と金城長靖内野手(沖縄電力)が同期だった。中学2年の時にアジア太平洋予選を勝ち抜き、ワールドシリーズで3位入賞。当時、監督を務めていたのはチーム創設者でもあり、のちに八重山商工高を甲子園に導いた“離島の名将”伊志嶺吉盛氏だった。まだ厳しい指導が主流の時代。伊志嶺氏も例外ではなく、「いかにして怒られないようにするか」ということばかりを考えていたという。

 世界3位となった翌年、伊志嶺氏が八重山商工の硬式野球部監督に就任すると、友利監督も大嶺らと揃って同校へ進学。大嶺をエースに擁した2006年には春にセンバツ初出場を果たすと、夏も沖縄予選で優勝して甲子園出場。大嶺とバッテリーを組み、主将としてチームをまとめた友利監督だが、実は「甲子園を目指そう」と思ったことは一度もなかったと振り返る。

「中学の時、世界大会に出たとはいえ、石垣島(という小さな世界)の中でやっていたので、甲子園は別世界のもの。『行けたらいいな』とは思っていたけど、本気で目指しているわけではなかったですね。勝てば監督に怒られないので『怒られたくないから頑張ろう』という気持ちでした」

 高校卒業後は、那覇市にある社会人野球チーム・ビッグ開発ベースボールクラブで2年間プレーしたが引退。石垣島に戻り、野球とはまったく縁のない生活を始めた。しかし、野球を離れて12年経った2020年、高校時代の同級生からの言葉で、野球の世界へ引き戻された。

「息子が野球をやりたいって言うんだけど、八重山ポニーズを復活させてくれない?」

野球の楽しさを伝えることをメインに、部員2人から再出発

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