グラウンドで敵監督にトレード直訴「獲ってください」 オリで干され…念願だった“放出”
1991年OP戦で南牟礼氏は星野監督にトレード直訴、2か月後に実現した
兵庫県西宮市の「みなみむれ接骨院」には南牟礼豊蔵氏の中日時代の背番号「40」のユニホームも飾られている。1991年、シーズン途中の5月にオリックスからトレードで中日に移籍。どうにも波長が合わなかった土井正三監督に見限られての放出劇だったが、実は念願がかなってのことでもあった。中日には以前からラブコールを送っていたからだ。なんと、あの闘将・星野仙一監督にも「獲ってください」と直訴していた。
送りバントを失敗して、土井監督の怒りを買った南牟礼氏。待っていたのはオリックス・井箟重慶球団代表からの中日へのトレード通告だった。若手右腕・川畑泰博投手との1対1の交換。「代表からは考える時間をあげるから、向こうも準備があるからゆっくり考えていい、1週間くらいで答えを出していいよって言われたけど、いや、行きます。絶対行きますってすぐ返事しました」。
それほど、うれしかった。実は、その年の3月、グリーンスタジアム神戸(ほっともっと神戸)でのオープン戦開始前に南牟礼氏は星野監督と“接触”していた。「当時、オープン戦は最後が中日戦でした。今でも覚えています。左中間のところで星野さんは体操していました」。その頃の中日には元阪急の大橋穣コーチ、加藤安雄コーチ、岩本好広コーチがいた。「ずっと前から大橋さんたちには『中日に行きたい』って言っていたんです」。
その日も練習の時に「大橋さん、こんにちは、まだ時間ありますよ。獲ってくださいよ、トレードで」と声をかけた。すると「『俺に言っても話は始まらない。監督に言いに行け』と言われた」という。「えーっ、言ったら殴られませんかって返したら『そういう選手が好きだから、喜ぶから行ってみい』って」。そこで、オリックスの練習が終わった後、ユニホームのまま左中間にいた星野監督のところに走っていった。