伝説の投手が今も悔しがる“1球” 想定外の事態に「うわーっ」…史上初のお披露目は幻
近田豊年氏は「ジュニア球宴」で両投げを予定も見せられなかった
左右両方で投げる“スイッチピッチャー”として南海に入団した近田豊年氏だが、NPBの公式戦では両投げを披露できなかった。左投げの鍛錬に手一杯で、右で投げる余裕もなかった。プロ1年目の1988年シーズン当初は注目を一身に集めていたが、キャンプ、オープン戦、ペナントレース開幕と日を追うごとにブームも下火となっていった。そんな中、7月の「ジュニアオールスター」ではその“技”を見せるつもりでマウンドに上がったという。ところが……。
0-0の4回裏、リリーフ登板の近田氏はマウンドでの投球練習で、まず左で投げ、それから6本指のグラブを持ち替え、右で投げた。しかもこれまでのアンダースローではなく、オーバースローで。「(上手でも下手でも)どっちでもいけたんでね」と振り返るが、投球練習通りに実戦でもそうするつもりだったという。2死一、二塁で打者はヤクルトの橋上秀樹外野手。1球目は左からカーブを投じて見逃しのストライク。2球目も左から同じくカーブを投げた。
「2球目もストライクだったら、次は右で投げようって思っていたんです」と近田氏はその時の考えを明かす。だが、2球目を打たれて、“計算外”のショートゴロでチェンジ。「うわーっ、投げられんかったって思いました」。苦笑いを浮かべながらマウンドを降りるしかなかった。結局、ここでもまた両投げを見せられなかった。抑えたけど悔しかった。それでも、まだ1年目のシーズン。公式戦で、いつかチャンスはあるはずと信じていた。
そんな未来を見据えて、まずは左投げの技術アップを進めた。「たぶん期待もされていたんでしょうね。2軍でもかなり試合で投げました」。開幕時は疲労がピークで状態も最悪だったが、2軍落ちしてから調子も上向いた。ただ、再びの投げすぎが少々、気にはなっていたという。「肩がめっちゃ、疲れてましたからね」。南海は9月にダイエーへの球団売却を発表したが、近田氏に再び1軍からお呼びがかかったのは、その後の10月になってからだった。
だが、ここで、まさかの事態が発生した。「明日から1軍って言われて、ピッチング練習していたら、左肘付近がパキッって。痛くはなかったけど、何かおかしいぞと思った」。骨折していた。「次の日になると腫れていました。1軍の練習には参加したけど、こんな状態ですって見せるしかなくて……」。当然、昇格はお流れだ。「投げすぎて骨折です。今だったら、そんなに投げさせないでしょうね。いっぱい試合に投げさせてもらって、いい経験にはなりましたけどね」。
左肘を手術し、オフはリハビリ生活へ。本拠地も大阪から福岡へ変わった。「でも、もともと体は強い方だったので、まぁ、大丈夫やろって、早い段階からトレーニングをやってました。実際、早めに投げることもできたんです」。気持ちも切り替えて、さあプロ2年目のシーズンだ。1989年、近田氏は右でも左でも投げただけではなく、何とそれぞれオーバースローでもサイドスローでもアンダースローでも投げた。スイッチピッチャーとして進化したのだが……。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)