教頭から呼び出し「不祥事やらかしたかな」 予期せぬ指名だった“他人事”のドラフト

元中日・山本昌氏【写真:山口真司】
元中日・山本昌氏【写真:山口真司】

50歳まで投げた山本昌氏も高校では“無名”、ドラフトはファン感覚でラジオ聴取

 NPB史上初めて50歳で公式戦出場を果たしたレジェンドと言えば元中日投手の山本昌氏だ。数々の最年長記録を更新し、プロ野球の歴史に名を残した。そんな左腕の土台にあったのが、長かった下積み時代だ。プロ4年目までは0勝。1年目のオフから毎年、戦力外を心配する日々だったという。それでも諦めることなく、道を切り開いていったわけだが、そこにはいろんな人との出会いがあり、それをプラスに転換させた生き方があった。

 山本氏にとって最大の転機になったのはプロ5年目、1988年のドジャース留学だ。当時ドジャースのオーナー補佐兼国際担当だったアイク生原さんに様々なことを教わり、メキシコ人内野手からスクリューボールを学び、見違えるような成長を遂げて、日本に帰ってきた。すべてが変わった運命のシーズンといってもいい。しかし、それもそこにたどり着くまでの日々があったからこそ、でもある。「僕には無駄になったことはひとつもなかったと思う」と言い切った。

 1983年11月22日、東京・飯田橋のホテルグランドパレスで行われたプロ野球のドラフト会議の模様を、日大藤沢高3年だった山本氏はラジオで聞いていた。「ラジオをポケットにしまって、袖からイヤホンを通して授業を聞いているふりしてね」。自分の指名が気になったのではない。

「1位指名と2位指名の放送があったんですが、僕はコアな野球ファンで、高校野球の雑誌とか、アマチュアの野球雑誌とか大学のとかも読みあさっていたので、すべての選手のことを知ってました。放送を聞きながら12球団の(ドラフトの指名)表を作ってました。すごいな、ここに決まったかって感じで……」

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