楽天監督になるはずも…「背中が痛い、無理やわ」突然の訃報 忘れられない恩人との日々
三村敏之さんが広島を率いた5年間を高代延博氏は「俺の財産」と語る
元広島監督の三村敏之さんは2009年11月3日に心不全のため亡くなった。当時は楽天のチーム統括本部編成部部長。61歳だった。広島、中日などでコーチを務めた高代延博氏にとっては大恩人だった。「今の自分があるのはミムさんのおかげという思いがある」。選手時代に広島1軍守備走塁コーチの三村さんと出会い、コーチになってからは同じ1軍コーチとして、2軍監督として、そして1軍監督として「いろんなことを教えていただいた」という。
1989年に現役引退し、広島1軍内野守備走塁コーチに就任した高代氏にとって、特に最初の3年間は“修行”のような期間だった。それでも三塁ベースコーチを務めていたが、1991年シーズン途中に“2軍落ち”を経験した。その時の2軍監督が三村さんだった。
「2軍でも三塁ベースコーチをやったんですが、ミムさんが『なぁ、高代、相手がスクイズ、エンドランと自分で思ったら、俺に相談せんでええから、ピッチドアウト出してええからやれ』って言ってくれたんです」。プレッシャーとの戦いでもあった1軍の時には味わえなかった経験だった。「やっと野球ができるような気持ちになった。そういうふうに思った」という。
法大の大先輩でもある山本浩二監督が1993年シーズンで退任した際には、高代氏も一緒に辞めようと考えたが、翌1994年から1軍の指揮をとる三村さんに「手伝ってくれよ」と言われた。それどころか球団に待遇面の交渉までしてくれたという。断る理由はなかった。
1998年まで続いた三村カープ。野村謙二郎、金本知憲、前田智徳、緒方孝市、江藤智……。今思えば超豪華な野手陣だが、みんなその時代にたくましくなり、大きな成長を遂げた。「走れる選手も多かったから楽しかった。ミムさんはピッチャーにまで盗塁させていたからね」と懐かしそうに話す。そして「あの5年間は俺の財産です」と言い切った。
当時の三村監督は「僕はフィールドマネジャー。種をまき、畑を耕すのが仕事。大きな実がなれよって願いを込めながらね」と話していた。高代氏はこう振り返る。「ある試合で延長になってバッターが若手だった浅井(樹)。スクイズすれば勝てたシーンで、ミムさんは打たせた。結果は出なかったけど『あそこでスクイズで勝っても浅井は伸びない。だから打たせた』って。公式戦でそこまで考えるなんてすごいと思った」。