楽天監督になるはずも…「背中が痛い、無理やわ」突然の訃報 忘れられない恩人との日々

高代延博氏【写真:山口真司】
高代延博氏【写真:山口真司】

三村さんは2009年11月に死去…10月の食事の予定はキャンセルに

 1999年から高代氏は星野仙一監督率いる中日の内野守備走塁コーチに就任したが、これも三村さんが絡んでいた。「ミムさんが監督になって3年経った時、言われたんです。『お前もまだまだこの後のことがあるけど心配するな、星野さんから高代をくれって電話があった。事後報告だけど、僕が(広島監督を)やっている間は手放せないと答えた。ただ、僕がやめたら、高代には他の球団からも来ているけど、必ず星野さんのところに送るって約束したから』ってね」。その通りになったわけだ。

「他からも話がきているなんて、ミムさんも商売上手よね。たぶん、なかったと思う。それだけ価値を上げてくれたんじゃないかと思っている」と高代氏はしみじみと話す。「ミムさんは『俺は一流じゃないからそんなに人脈もない。だから、よそから話が来たら、ちゃんと聞いとけよ。裏でこそこそじゃなくて、俺はそうしてくれと思う』って言っていた。普通、そんなふうには言えないでしょ。“俺とやっている時に何をよそとごちゃごちゃしとるねん、お前なんかいらんわ”ってなるでしょ。すごいな、この人はって思いましたね」。

 亡くなったと聞いた時は信じられなかった。2009年10月29日、グランドプリンスホテル新高輪で行われたドラフト会議に三村さんは出席しており、それからわずか4日後の訃報だった。10月下旬に高代氏は東京で食事をする約束をしていたという。「でも電話があって、背中が痛いって、今日は無理やわって。それが最後の言葉だった……」。

 三村さんはいずれ楽天の監督になる予定だった。高代氏はその時が来たら「『ヘッドコーチで』って言われていた」という。熱い激励も覚えている。「三塁ベースコーチでは伊原(春樹)さんが有名だけど、ミムさんは『高代、絶対負けるなよ、お前やったら勝てる、日本一のコーチになれよ』って……」。もっと、もっと、いろんな話を聞きたかった。また一緒のユニホームで戦いたかった。今でもさみしくてたまらない。

 悲しい知らせは翌年にもあった。2010年、高代氏は韓国のハンファ・イーグルスの総合コーチに就任したが、今度は教え子が……。ショックだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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