怒りが生んだ“ケンカ投法” まさかの打撃投手指令で覚醒「ボールが行きだした」
鹿島忠氏は5年目の1987年、先発で結果を残せずフォーム改造に着手した
野球評論家の鹿島忠氏は現役時代、中日の中継ぎ陣のエース格だった。当初は先発ローテーション投手としての活躍が期待されていたが、星野仙一氏が監督に就任したプロ5年目の1987年シーズン途中から、リリーフに徹することになった。そこから厳しい内角攻めを“武器”にしはじめたが、これには転機があった。「2軍落ちして1軍の地方遠征にバッティングピッチャーで呼ばれて面白くなかったんで、練習でも“絶対打たせてたまるか”って感じで投げたら、ボールがバンバン行きだした」という。
鹿島氏はプロ4年目の1986年8月28日の大洋戦(横浜)でプロ初完投、初完封勝利をマークした。それは大きな自信となったし、球団の評価も上がった。「来年は先発ローテーションピッチャーだね」とフロントからは期待されていた。1987年シーズンから星野中日になったが、実際、当初は先発組のひとりだった。
開幕カードの巨人戦(4月10、11、12日=東京ドーム)は杉本正投手、鈴木孝政投手、小松辰雄投手の順番で先発。鹿島氏は、その次のカードの広島戦初戦(4月14日)に先発した。本拠地・ナゴヤ球場での“開幕投手”に指名されたのだ。しかし、2回5失点でKOされて敗戦投手になった。
そこから中4日で先発した4月19日の阪神戦(ナゴヤ球場)は5回3失点で勝利投手になったが、続く4月25日の大洋戦(横浜)は1回も持たずに2/3イニング5失点で降板して敗戦投手。「それで先発はクビになった」という。その通り、星野中日で鹿島氏が先発することは、それ以降、1試合もなかった。5月上旬には2軍落ちした。
「ブルペンではよくてもゲームになったら感覚が違った。何でだろうと思った」。考えた末にフォーム改造に踏み切った。「まず右手の使い方を変えた。それまではどっちかというと後ろを大きく使うタイプだったが、それをコンパクトにした。足も高く上げない。ほぼすり足にした。そこにたどりついた。誰のアドバイスも受けていないよ。だって何とかせい、で終わる時代だもん。抑えられなかったら、使われないだけ。自分でやるしかなかった」