“眼中なし”の言葉に発奮「やったろうぜ」 史上初の栄冠へ…名門PLとの激闘の舞台裏
沖縄県勢初の選抜優勝の中心となった現カープ編成部・比嘉寿光氏
1999年の第71回選抜高等学校野球大会で、沖縄尚学は春夏を通じて沖縄県勢初の甲子園制覇を果たした。当時、キャプテンだったのが広島東洋カープの比嘉寿光編成部編成課長だ。思い出深いのは決勝の水戸商(茨城)戦だけではない。準決勝・PL学園(大阪)戦も忘れられない試合だった。延長12回の大激闘の末の勝利。「すごい楽しかったですよ。何かテレビで見ている人たちと野球をやっている感じだった」と笑みを浮かべながら振り返った。
沖縄尚学の「4番・ショート」だった比嘉氏は、1-0で勝った選抜1回戦の比叡山(滋賀)戦も、5-3だった2回戦の浜田(島根)戦も、いずれも無安打。「かすりもしないくらいの打撃の悪さでした。1回戦、比叡山のピッチャーの村西(哲幸)君は後に横浜に入りましたけど、ナックルカーブみたいなのを投げてきて、そのキレ味も良かった。2回戦もバットに当たる気がしなかったです。まぁ、それが僕の実力だったということですけど」。
それでも比嘉氏はプラス思考だった。「僕の中では村西君がずば抜けていたピッチャー。1回戦で一番いいピッチャーに当たったと思っていたので、そろそろ、準々決勝(市川=山梨)くらいからはいけるかなぁ、なんて考えていました」。そのタイミングで金城孝夫監督は比嘉氏の打順を1番に変更した。「『打席に多く立ちなさい』という意味もあった。気分転換で、それがよかったですね」。市川戦では4安打と復調。「あっ、これだって感じになった」という。
そして準決勝・PL学園戦だ。比嘉氏は4番に戻り、初回に先制タイムリーを放った。7回表を終わった時点で、沖縄尚学が5-2と3点リード。だが、その裏に追いつかれた。2死からのショート・比嘉氏のエラーがきっかけだった。「なんとなく覚えています。忘れてはないですよ。でもあの時、僕、笑っていたと思うんです。大丈夫かなと思うくらい。僕のエラーから同点になったけど、打席で返そうくらいしか考えてませんでしたからね」。
前年夏の“名勝負”のメンバー相手に「浸っている感じもあった」
試合はそのまま延長戦に突入。11回は両チームともに1点を取り合い、12回表に沖縄尚学が2点を勝ち越して、ようやく逃げ切った。「点を取っても追いついてくる。どこまでも粘ってくるんで、これが名門校の強さかって思いました。正直、やられるかなって思った回もありました。最後2点取った時も、また2点取られるんだろうなって思っていたくらい。最終的に勝ち切って、お客さんがすごく盛り上がってくれたのには感動しましたね」。
実は、戦前、PLサイドのコメントを見て気合を入れ直したという。「僕らのチームを知っているかと聞かれて、“どこが来ても一緒です”みたいな眼中にないような感じだったんで、『よっしゃ、やったろうぜ』って盛り上がっていたんです」。力みまくったわけではない。「僕らは欲がないチーム。もう甲子園で3試合もできたし、いつ帰ってもいい気持ちだったんです。逆にそれがよかったと思いますよ。ガチガチにもならず、すごい楽しんで試合ができましたから」。
PL学園は前年(1998年)夏の甲子園準々決勝で、松坂大輔投手(元西武、レッドソックスほか)を擁する横浜(神奈川)と対戦。7-9で敗れたが、延長17回の大激戦はまさに名勝負だった。その時のメンバーでもあったPLの田中一徳外野手(元横浜)や田中雅彦捕手(元ロッテ、ヤクルト)は比嘉氏にしてみれば「テレビで見た人」。そんなスター選手と大舞台で、今度は自分たちが戦っていることに「浸っている感じもありました」という。
「延長に入って、マウンドに集まるシーンがあったんですけど、“この場にいる俺たち、すごいよな”みたいな感じで話した気がします。前年、僕らがPL対横浜をテレビで見ていたように、今、僕らの試合を見ている人たちも『面白いのかな』って思っていました。何か人ごとみたいな感じもあったんですよねぇ」。勝利の瞬間もそう。「何か夢見ている感じ。僕らが決勝に行くのかってね」。
沖縄尚学のエース・比嘉公也投手はPL戦で212球の熱投。そのため決勝の水戸商戦には投げなかったものの、今度は背番号12の照屋正悟投手が完投し、沖縄尚学は歴史的優勝を成し遂げた。「大会を通して1試合ごとにチームが何か強くなっているなと感じましたね」と比嘉氏は懐かしそうに話す。もちろん、準決勝でPLに勝ったことが大きな自信になったのは言うまでもない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)