監督の“待った”で実施されなかった引退試合 始球式で幕…悔し涙で終わった現役生活

オリックス時代の野田浩司氏【写真:共同通信社】
オリックス時代の野田浩司氏【写真:共同通信社】

野田浩司氏は1997年オフにFA宣言…オリと3年契約で残留も右肘痛に泣いた

 悔し涙で幕を閉じた。阪神とオリックスで活躍した野田浩司氏(野球評論家)はプロ13年目の2000年シーズン限りで現役引退した。通算成績は316試合、89勝87敗9セーブ、防御率3.50。右肘を痛めて、1998年からのラスト3シーズンは白星がなかった。最後は始球式での1球だけの登板。「ブルペンで準備している時から涙が止まらなかった」。投じたのは三振の山を築いてきた“魔球”フォークだった。

 野田氏は1997年オフにFA宣言。他球団移籍も視野に入れていたが、オリックス・井箟重慶球団代表に口説かれ、年俸1億3500万円の3年契約で残留した。気合も入った。だが、逆行するように右肘の状態が悪くなった。1998年は2軍暮らしが続き、球宴明けの7月29日の日本ハム戦(グリーンスタジアム神戸)に先発したが、1回1/3を4失点でKOされた。日本ハムの田中幸雄内野手とウィルソン外野手に一発を浴びた。その後、3試合にリリーフしただけで終了した。

 1998年オフに右肘を手術したが、好転しなかった。1999年はリハビリを経て1軍では10月に2試合登板しただけ。「ボールが戻らなかったですね。最後の方はストレートが130キロ。フォークは投げられるけど、真っ直ぐがないから通用しませんよね。ファームでも最初のうちは名前で抑えていましたけど、バッターが慣れてくるとめった打ちされていましたからね」。1999年オフはマリナーズ傘下のルーキーリーグで調整した。

「井箟さんが行かせてくれました。名目はメディカルチェックでしたが、向こうのピッチングコーチとフォーム矯正にも取り組みました。1か月半くらい行っていたと思います」。効果もあったという。「2000年のキャンプ中は正直、いけそうな気がした。戻ったなぁって感じもあったんですけどね」。しかし、1軍から呼ばれることはなかった。結局、この年、上で1試合も登板できなかった。

「人間ってやっぱり自分をよく思いたいという部分がありますからね。実際1軍で投げたら駄目だったかもわからないけど、試されてはみたかったですねぇ。でも、ずっと期待を裏切っていましたからね。チームには新しい力も出ていましたし、それが厳しいプロの世界ですよね。球団には自分から『もう引退します』と言いました」。FA残留で得た3年契約。その間に全くチームに貢献できず、悔しい思いでいっぱいだったのは言うまでもない。

 2000年10月13日、その年の本拠地グリーンスタジアム神戸での最終戦となる西武戦で野田氏はラスト登板を始球式で行った。「球団は引退試合みたいにしようとしてくれたんですが、仰木(彬)監督が『順位がまだ確定していないので始球式にしてくれ』ってことでした」。西武の1番打者・小関竜也外野手に投げた。最後の1球はもちろん、現役時代を支えてくれたフォークだった。「号泣しました。もう1回マウンドに立ちたかった、勝ちたかったという悔し涙でした」。

オリックスなどで活躍した野田浩司氏【写真:山口真司】
オリックスなどで活躍した野田浩司氏【写真:山口真司】

教える時は「自分の投げ方は当てはめません」

 その試合は翌2001年シーズンからメジャーリーグにはばたくイチロー外野手のオリックスでのラストゲームでもあった。ともにオリックスの優勝、日本一に貢献した2人。現役引退とメジャー移籍。立場は違っていたとはいえ、それもまた思い出に残る“縁”だった。

 現役引退後、3年間の解説業を経て野田氏は2004年の伊原春樹監督時代に1軍投手コーチとしてオリックスに復帰した。だがチームは最下位に終わり、わずか1年で自ら退任を申し出て飲食業へ転身した。「結果が出なくて精神的に苦しかったこともあるし、もともと現役の頃から商売をやりたかったんです。ちょうど(近鉄と)合併の時。中村(勝広)GMからは(2005年から)仰木さんが監督になるし、コーチを頼まれると思うぞと言われたんですけどね」。

 考えを理解してくれた中村氏には感謝している。「商売をやるって言った時『お前、面白い考え方するなぁ』って言われたのを覚えていますね」。野田氏は2005年11月には神戸市三宮に九州料理店「まる九」をオープン。「お店には中村さんが球界で一番、来てくれたんですよ」という。その「まる九」も経営が順調のまま2019年に、それまで一緒に頑張ってきた店長に譲って、敢えて区切りをつけた。今は次の道をにらみつつ、投資など運用系の勉強もしているそうだ。

 これまでに社会人野球でも大学野球でも少年野球でもコーチを経験した野田氏は「引退してから思うんですよ。現役の時、もっとフォームの勉強とかしていればなぁってね。昔の自分を冷静に見たら投げ方とか、やっぱり理にかなっていないんですよね。だから教える時は自分の投げ方は絶対に当てはめません」と笑みを浮かべながら話す。フォークが武器だったが、その分、肘への負担も大きく、最後は故障に苦しんだ。それもあって、いろいろ考えるのだろう。

 しかしながらロッテ・佐々木朗希投手とともに1試合19奪三振の日本記録保持者であるように、野田氏はフォークの使い手として球史に名を残している。熊本・多良木高から九州産交を経て、阪神とオリックス、関西2球団で活躍した右腕はまだ55歳。野球評論家である現在も同志社大準硬式野球部を指導するなど、さらなる野球界への貢献が期待される。その野球人生もまた継続中だ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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