中日以外なら拒否…失言にスカウト激怒 大阪桐蔭の17歳、ドラ1指名の裏で“ひと悶着”
今中慎二氏が3年の時に高校名が大産大付大東校舎から大阪桐蔭に変更
元中日投手の今中慎二氏(野球評論家)は1988年のドラフト1位でプロ入りした。当初は進路にプロはなかった。大産大付大東校舎2年までは大学進学を覚悟していた。「亜細亜大学に行くことが決まっているような感じだった」。その流れが変わり始めたのは3年になってから。大東校舎が大産大付から“独立”して大阪桐蔭になったことが、プロに進む“追い風”にもなったというが、ドラフト前にもいろんな出来事が起きていた。
大産大付→亜大。今中氏は自身の進路についてずっとそうなるものだと思っていたという。「(山本泰)監督に1年の時から“お前は亜細亜だな”って言われていたのでね。4つ上の先輩に左ピッチャーで産大から亜細亜に行った人がいて、その先輩が夏にいつも帰ってきて、俺が付き人をしていたんですけど、その人にも『亜細亜だな、お前は』って言われていたし……」。それが当たり前のように思えるほどだったそうだ。
「山本監督は基本、高校からプロに行かせないんですよ。(大産大付の前に監督を務めた)PL学園の時も木戸(克彦)さんとか小早川(毅彦)さんとか大学(法大)に行っているでしょ。そのケースが多いんですよ。グラウンドにプロのスカウトは出禁でしたしね」。ところが、高3(1988年)になって山本監督と離れることに。野球部のほとんどが属していた大東校舎が大阪桐蔭となり、長沢和雄氏が新監督に就任。山本監督は大産大付監督として“残留”したからだ。
大阪桐蔭のエースとなった今中氏にプロの注目も増した。大産大付時代と違ってグラウンドにプロスカウトも足を運べるようになったのも拍車をかけたかもしれない。チームの前評判も高かった。その年(1988年)の選抜大会には近大付、上宮、北陽と大阪から3校も出場したにも関わらず、夏の大阪大会の優勝候補にあがっていた。大会前の合宿は学校で行った。食事は学校近くの喫茶店。そこは当時ロッテの牛島和彦投手の実家だった。
「牛島さんのお父さんには毎日、牛島さんが浪商時代の甲子園に行った時の話を聞きましたね」。大阪桐蔭として初めて迎える夏。それなりの自信、手応えもあった。「ある程度、上まで行けるだろうとは思っていました」。だが、結果はまさかの初戦敗退。今中氏は15三振を奪ったが、公立の茨木に延長12回1-2でのサヨナラ負けだった。
中日を“逆指名”…中日以外なら社会人に進む考えだった
「あの時は誰が最初にホームランを打つかなって、そんな話ばかりしていた。負けるなんて思わないし、ウチには応援団も来てなかったしね」。やはり慢心はあったのだろう。12回は2死二塁でショートがトンネル。最後の夏はあっけなく終わってしまった。もっとも「負けた時はみんな呆然としていたけど、夜にはケロっとしていた」という。
「以前から3年の寮生は夏の大会に負けたら夜はバスに乗って生駒山上遊園地に行くことになっていて、俺らもそこに行ってワーワー騒いでいた。夏休み長いなって言ってね。だって1か月以上もありましたからね」。今中氏は、この時点で亜大進学こそ考えなくなっていたが、プロについては「まだ意識していなかった。どこに行きたいとかもなかった」と話す。しかし、この逸材をプロが放っておくわけがなかった。
当時は退部届を出せば、プロとの接触が認められ、その解禁後は12球団が今中氏のところにやってきた。その中で熱心だったのは日本ハム、巨人、中日、ヤクルトだったが、最終的には中日を“逆指名”する形になった。「(中日スカウトの)中田(宗男)さんの熱意と(1学年上で対戦機会もあった)立浪さんがいたのもあったかな。それにその年はドラゴンズが優勝しましたからね」。ただし、これは今中家の総意だったわけではなかった。
「父も兄もどこでも行けばいいじゃないかって考えだったしね。実際に父は俺の知らないところで電話に出て、指名されたらどこでも行きますって言っていたみたいだし、まぁ、そんなこともあって、その頃は家族の会話はほぼなかったですね。俺は中日以外なら日本生命っていうのも決めていたんですけどね」。そんな中、簡単に引き下がらなかったのは日本ハムだった。
熱心だった日本ハムスカウトとは“言い合い”になったという
「解禁になって初めて会った球団が日本ハムだったんです。新地の食道園で食事しようと言われて、父と行ったら、大沢親分(大沢啓二球団常務)がいた。何を話したかは覚えていないけどね。日本ハムの宮本(好宣)スカウトも熱心な方だった。俺はもう中日って言っているのにしつこかったですよ」。家の近くで宮本スカウトと食事をした際には“言い合い”になったという。
「あの年(1988年)は東京ドーム元年。ハムも(本拠地が)東京ドームだったでしょ。で、観客動員が200万人を超えたって言われて『それは球場を見に来ているだけじゃないですか』って言ってしまった。そしたらめっちゃ怒って西崎(幸広)さんとか松浦(宏明)さんがどうのこうのって……」。今中氏は「まぁ、高校生にそんなことを言われたらそりゃあ怒りますよね」と今は言いすぎたと反省しているが、あの頃は……。
ドラフト前に日本ハムは今中氏獲得を諦めた。中日は球団職員の大豊泰昭外野手を2位に回して、今中氏を1位で指名した。「ドラフト当日は保健室で寝ていたら、11時頃に『そろそろだぞ』って言われて起きた。見たらメディアが学校にいっぱい来ているなって思いましたね。ホントに指名されるかって一応ドキドキもした。指名されてホッとしたかな」。今では大強豪の大阪桐蔭からのプロ1号選手の誕生だった。
「俺が(2001年に)現役をやめてキャンプ巡りをしていた時、ベイスターズのブルペンにどこかで見たことがある人がいるなと思ったら、あの宮本さんだった」。当時の宮本氏は日本ハムスカウトではなく横浜のスカウト。「『あの時はよかったなぁ、中日に行けて』って言われました。あの時のやりとりの話もしましたよ」。それもまた思い出。そして改めてこう話した。「あの時、大阪桐蔭になっていなかったら、俺はプロに行ってなかったかもね」。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)