消去法で捕手に…野球初心者が強豪校入部 スカウトの打診も“惹かれなかった”NPB

元巨人・松本匡史氏【写真:矢口亨】
元巨人・松本匡史氏【写真:矢口亨】

松本匡史氏が報徳学園中に進んだのは甲子園が目的ではなかった

 第1次長嶋茂雄監督時代にプロデビュー。「青い稲妻」のニックネームで盗塁を決めるさっそうとした姿に、プロ野球ファンの胸は躍った。昨今の盗塁王のタイトルは30個前後で争われる。それを大きく上回るセ・リーグ最多盗塁記録76個(1983年)を保持する元巨人・松本匡史氏が、野球人生を振り返る。

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 兵庫・尼崎市生まれ。出身の報徳学園高と言えば、松本氏の入学前、春夏合わせてすでに5度の甲子園出場を果たしていた名門校だ。「でも、高校野球でのプレーを視野に入れて報徳学園に進学したわけではないんです」。小学校の校長先生が、松本氏の父親に報徳学園中等部の受験を勧めたのが直接の理由であり、しかも小学生時代の松本氏は柔道少年だった。

 中等部の軟式野球部に入部したのは、友人に誘われたのがきっかけ。「新入生は好きなポジションを守っていいぞ」。入部初日、どこを守るべきか逡巡した野球初心者の松本氏は、「守っている人数が少なかった捕手のポジションを選びました」。

 本格的に野球をする選手のほとんどが、遅くとも10歳前後にボールを握ると言われる。だが、運動神経に秀でた松本氏はめきめきと頭角を現し、中3時には強打者として県内に名をとどろかせた。当時、阪神にドラフト1位指名されたホームラン打者・田淵幸一になぞらえ、「田淵2世」の見出しが地元の神戸新聞に躍った。

 ただ、チームメートに中谷準志(阪急=現・オリックス)の息子がいて、松本氏は韋駄天、阪急の福本豊のファンであった。

高校球児の憧れの甲子園の土を踏むも…記念の土を持ち帰らなかった

 高等部に進むと、さすが名門野球部には、内部進学以外の俊英が集結していた。捕手のポジションは追われた。それでも打力を生かし、レフトで2年春夏の甲子園の土を踏む。2年夏は4番だった。

 甲子園地方大会の参加校が多い兵庫県内の選手にとっては、「近くて遠い甲子園」と表現されることもある。だが、当時の甲子園球場は地方大会でも使用されていた。率直な思いとして、松本氏には感動も薄かった。

「甲子園に出場できたこと自体は凄いことだと思うんですが、大活躍したということもなく、あまりいい思い出は残っていません。だから甲子園の土も持ち帰っていないんです」

 春は初戦の2回戦で愛知・東邦高に4-12の惨敗。夏は1回戦で秋田市立高を7-0で退けたが、2回戦で岡山東商に3-5で敗れている。

 最後の夏を終えると、プロ野球のスカウトから野球部監督に打診はあった。甲子園にもプロ野球にも特段の興味を示さなかった松本氏だが、心を強く揺さぶられた野球があった。それは高3春にテレビ中継で見た、熱気あふれる「伝統の早慶戦」だ。

 早稲田の「紺碧の空」、慶應義塾の「若き血」。両校の応援歌が学生野球の聖地・神宮球場で声高らかに歌われる中、白球を追う茜色の文字のユニホームに目を奪われた。

「あの舞台で野球をやりたい!」

 高3夏の兵庫県大会の準決勝で東洋大姫路高に敗れたあとは、ねじりはちまきの猛勉強。みごと早稲田大学の教育学部に合格を果たすのであった。

【実際の様子】69歳でも軽快…現役時代と変わらない“青い稲妻” 松本匡史氏の走る姿

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