新婚旅行も「そんな暇あるのか?」 ハワイ諦め多摩川に…生活懸けた新妻とのトス打撃

元巨人・松本匡史氏【写真:矢口亨】
元巨人・松本匡史氏【写真:矢口亨】

「地獄の伊東キャンプ」でスイッチ転向を目指した松本匡史氏

 第1次長嶋茂雄監督時代にプロデビュー。「青い稲妻」のニックネームで盗塁を決めるさっそうとした姿に、プロ野球ファンの胸は躍った。昨今の盗塁王のタイトルは30個前後で争われる。それを大きく上回るセ・リーグ最多盗塁記録76個(1983年)を保持する元巨人・松本匡史氏が、野球人生を振り返る。

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 長嶋監督のたっての希望で、1976年のドラフト5位で早大から巨人に入団した松本氏。3年目に大手術を行った脱臼癖のある左肩の負担を軽減するため、内野手から外野手へ。さらに俊足を生かすために、右打ちからスイッチヒッターに転向する。それは必然であり、振り返れば野球人生のターニングポイントであった。のちに代名詞になる“青い稲妻”の左打ちは、「地獄の伊東キャンプ」で産声をあげたのである。

 松本氏が左肩手術でシーズンを棒に振った1979年、巨人は5位に沈んだ。その秋、V9選手がすべて引退したときに向けて、次代の巨人ブランドを守るための「地獄のキャンプ」が静岡・伊東で始まった。10月28日から、若手の総勢18人で26日間。朝10時から夕方5時まで、みっちりと特打、特守で個人強化。夕飯を挟んで急こう配の坂でランニングの繰り返し。

 他の野手の指導は与那嶺要打撃コーチが担当したが、松本氏に限っては長嶋監督のマンツーマンだった。「鳥かご」と呼ばれる打撃ケージの中で、打撃マシンの球を左打席でひたすら打つ。ただし、同じスイッチヒッターにしても、柴田勲(巨人)、高橋慶彦(広島)、加藤博一(当時・阪神)らが右投手対策用として鋭い打球を飛ばすのとは一味違った。

「とにかく投球を地面に叩きつけて、高いバウンドを打て!」と長嶋監督。打席の最も捕手寄りに立ち、“大根斬り”で投球を本塁ベースに叩きつける練習だった。

「言葉では簡単ですが、26日間、1度も本塁ベースには当たらなかったですね。要するに、そのくらいのイメージで叩きつけなさい、ということなのですが」

 1日1000スイング。左打ちは初めての経験で、ミートさえままならない。自打球を何度も右足にぶつけた。取材に訪れた新聞記者は呆れて、ささやいた。

「松本は絶対モノにならないよ」

1980年は3位…長嶋監督が「男のけじめ」でまさかの退任

 伊東キャンプを終え、松本氏は12月に結婚式を挙げた。しかし……。「監督、新婚旅行に行ってきます」「マツ、そんなことをしている暇があるのか?」。旅行先のハワイは急きょ、多摩川の室内練習場に変更された。ティー打撃の球を上げてくれたのは新妻だった。

「結婚したばかりなのに、ゴロを叩きつけて走らなければクビになる」

 危機感のかたまりを抱いていた松本氏は、打撃投手や打撃捕手に頼み込んで、練習前の早出特打を必死に繰り返した。

 そして翌1980年、2000安打を達成したV9戦士の柴田に代わり、「1番・センター」に抜擢された。71試合出場、55安打、打率.278、21盗塁。左打席での変化球に対しては、投球にしがみつくようにバットに当てた。努力はゆっくりとだが、確実に結実しつつあった。

 新生・巨人は広島でのシーズン最終戦で3位を決め、ナインはその日のうちに飛行機で帰京した。翌10月21日だった。「男のけじめ」の言葉を残し、長嶋監督は突如、解任された。

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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