故障隠して登板も「真面目に投げろ」 つらかった痛烈野次…球速出ない異変に「嘘でしょ」
今中慎二氏は第2期星野政権1年目の1996年に14勝…4年連続2桁勝利だった
闘将・星野仙一監督が中日監督として帰ってきたのは1996年シーズン。元中日投手で野球評論家の今中慎二氏はその時、プロ8年目で4年連続開幕投手を務めた。第1期政権の最終年(1991年)は3年目の若手だったが、第2期政権“元年”は完全にエース格で4年連続2桁勝利の14勝8敗、防御率3.31の成績を残した。「監督も(第1期より)ちょっとは丸くなっていました」というが、厳しさゼロでは当然ない。完投勝利後に握手を拒否されたことがあったという。
第2期星野政権発足の1年前の1995年、中日は序盤から低迷し、6月に高木守道監督が休養、さらに徳武定祐監督代行も解任され、2軍監督だった島野育夫氏が代行の代行を務める異常なシーズンで借金30の5位に終わった。そんな中、今中氏は12勝9敗と奮闘したが「あの年のオールスター以降は勝敗は関係なく準備でしたね」と振り返った。その時点で翌1996年シーズンからの闘将復帰は既定路線だったからだ。
「(監督代行が)島野さんになって、もう来年に備えて練習もきつくなってきたし、走り込みも多くなった。(目先の)試合に合わせるなんて一切ない。完全に来年モードでしたね」。その頃に今中氏にはメジャーも注目していたと言われるが「俺の知らないところじゃないですか。現役を辞めた後になって、あの時、身分照会があったらしいって話は聞きましたけどね」と話す。
「中日にいた外国人選手が(米国に)帰ってから『中日にこんなピッチャーがいる』と言って、そうなったとかいうのも聞いた気がしますけど、例え(誘いが)来ても、行かないよって話ですよ。メジャーに興味もなかったしね」と笑うが、そんな話が出るくらい当時の今中氏は日本球界屈指の左腕であったのは紛れもない事実だ。帰ってきた星野監督も左腕の成長には目を細めていたし、一目置くようになっていた。だが、闘将の厳しさもまた“健在”だった。
1996年、今中氏は4年連続となる開幕投手も任された。6月27日の広島戦(ナゴヤ球場)では球団史上最速の186試合での1000奪三振も達成した。左肩の状態があまりよくなかったために球宴は辞退したが、それも大事を取ったレベルで深刻なものではなかったそうだ。それよりもこの年で思い出すのは先発して13勝目をマークした9月24日の横浜戦(横浜)という。
「試合前のウオーミングアップで、ダンベルでストレッチしていたら、右手の人差し指を挟んじゃったんです。痛いなぁって思いながらブルペンで投げたけど、返ってくるボールをグラブで捕ると痛かった。試合ではグラブから指を出して投げたけど、打席で手袋をはめて、芯に当たっても痛かった。知らない間に指が紫色になっていました」
1997年の自主トレで左肩に異変…5年連続開幕投手を断念した
投げる方の左手ではなかったといえ、影響はあったのだろう。今中氏はその試合、初回に1点、3回にも2点を失った。打線が4回に5点を取って逆転したが、その裏にも1失点。「でも、その日は打たれても、打たれても代えてくれなかったんですよ。4回くらいにバッテリーコーチに『おい、監督がむっちゃ、怒っているぞ』と言われて、指を見せても『頑張れや』って」。結局、今中氏は6失点完投で勝利投手になったが、試合後の握手を星野監督から拒否された。
「みんなと握手して、監督にもしようとしたら、監督はそっぽ向いて行っちゃったんですよ」。星野監督はその時点で今中氏の右手人差し指の怪我のことを知らなかった。「打たれたことに怒っていたんですよ。だらしないってね」。エースなら何とかしろ、ということ。打線の援護もあって敢えて完投させたのだった。「監督らしいなって思いましたね」と今中氏は振り返る。そしてこう付け加えた。「次の日に病院に行ったら、骨折しているって言われたんですけどね」。
でも、この時はまだ良かった。ちゃんと投げていたから。今中氏はプロ8年目を終えて通算87勝をマークした。この時、まだ25歳。若き左腕は、どこまで白星を積み重ねていくのかと思われるほど、それこそ末恐ろしい投手だったのだが……。翌1997年の自主トレ中に異変が起きた。「左肩が痛くてボールが投げられないようになった。5メートルを投げるのも痛かった。沖縄キャンプに行っても痛くてキャッチボールが塁間を届かなかったんです」。
ごまかしながら調整を続けた。「コーチ陣はなんとなくわかっていたけど、監督には言わずに1クール、2クールとずっとブルペンに入らず、痛いなぁと思いながらもちょっと軽い遠投をやっていた」。だが、20日を経過したところで星野監督に呼び出しをくらったという。「『お前、いつになったらブルペンに入るんだ、早く入れ』と言われて、入ったんだけど駄目だった」。それでも諦めることはなかった。開幕投手を早い段階から言われていた。何としても、の意気込みだった。
「開幕前のオープン戦、大阪ドームでトーナメントがあって、ロッテ戦で投げたんですよ。そしたら真っ直ぐが120キロだった。嘘でしょって思った。ロッテの選手が野次るんですよ。『真面目に投げろ』って。こっちは真面目に投げているんだ、それでも出ないんだっていうのにね」。悔しかったが、どうしようもなかった。
「ホテルに戻って監督のところに行きました。『すみません』って言ったら『分かるわ、アホ、お前』って。『治療に専念しろ』って」。開幕の1週間前、今中氏は5年連続開幕投手を断念した。そうするしかなかった。それが故障とのつらい戦いの始まりだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)