幻に終わった伝説右腕のヤクルト入り「俺の性格から無理」 超一流企業で芽生えた夢
山口高志氏は松下電器に入社…野球と仕事がどっちつかずになっていると感じた
初めて芽生えた思いだった。元阪急(現オリックス)投手の山口高志氏は関西大4年時にプロを拒否して松下電器に入社したが、1973年の社会人野球1年目のシーズン終了までに気持ちの変化が起きた。「まだ評価してくれるのならプロ野球でと考えるようになった」。最終的に実現はしなかったが、1972年ドラフト会議で4位指名を受けたヤクルトに入団することまでも模索していたという。
1972年、関西大4年時の第1回日米大学野球選手権(7回戦制)ではオールジャパンのエースとして3勝をマークしてMVPに輝くなど、アマチュアナンバーワン投手と言われながら山口氏はプロ入りを選択しなかった。「野球は楽しくやりたい」という考え方。その点、1969年から1971年にかけて八百長疑惑の“黒い霧事件”で揺れたプロ野球は違う世界に見えすぎた。その時はどうしても気持ちがプロに傾かず、ドラフト前に社会人入りを表明した。
それが社会人1年目に変化した。1972年ドラフト会議ではヤクルトアトムズが4位で山口氏を強行指名。交渉に松園尚巳オーナーが直接出馬しても、首を縦に振らなかったのが「プロでやってみたい」と思うようになった。「松下では事業部の仲間ともすぐに打ち解けた。だけど、周りの仲間が良すぎたからこそ、野球と会社の両立が不安でたまらなかった。このままでは野球も中途半端、仕事も……。こんなのは自分の甘えでしかなかったんですけどね」。
松下電器では研修後に電子部品事業部に配属され、平日午前中は仕事、午後は練習のスケジュール。「野球をやっていなかったら、松下には入れなかったですからね」とその環境にも感謝していた。だが、1年目は野球で思うような成績を残せなかった。都市対抗(7月27日開幕、後楽園)には予選を突破して出場したが、1回戦で日産自動車(横須賀市)に0-5で敗れた。先発の山口氏は6回に倍賞明内野手に先制3ランを浴びるなど、7回4失点で降板した。
秋の日本産業対抗野球大会には9月の予選で敗退した。ちなみにこの大会はその年で終了し、翌1974年からは社会人野球日本選手権大会へと移行となる。それこそ優勝が当たり前くらいになっていた関大時代に比べれば、寂しい結果だったが、何よりも自身の中で野球と仕事がどっちつかずになっているような気になったという。「それで、どっちかを選ぶのなら、まだ評価してくれるなら、最高の野球の舞台でやりたいという気持ちが強くなったんです」。
指名から1年後…ヤクルト入り模索も「時間が足りないと思いました」
そこで山口氏が考えたのが、前年のドラフト会議で4位に指名してくれたヤクルト入りだった。「松下の1年目のシーズンが終わってからヤクルトの交渉権がある間はちょっとフラフラしましたね」と明かした。現在のルールではできないが、1972年のドラフト指名選手までは、大卒社会人1年目の選手がシーズン終了後に交渉権(1972年当時は翌年のドラフト会議前日まで有効)を持つ球団に入ることが可能だった。
1970年に中日からドラフト3位で指名された江津工・三沢淳投手は新日鉄広畑に入社して1年目のシーズン終了後に中日入りしたし、1971年の巨人ドラフト7位の玉井信博投手は東洋大から三協精機に入社後、1年遅れで巨人に入団。山口氏がヤクルトに4位指名された1972年のドラフト組でも大洋6位の東京農大・佐藤龍一郎外野手が電電東京に入社し、1973年のドラフト前までに大洋入りした。同じように山口氏もヤクルト入りを描いたわけだ。
しかし、結果的にその適用を見送った。「その時はヤクルトに行きたい気持ちが強かったんですけど、そこまで行く筋道、順序だてには時間が足りないと思いました。大学でお世話になった人に相談したり、すべてに自分の気持ちを伝えるにはね。そりゃあ、後ろ足で砂をかけてもいいくらいの熱があったら行けたかもしれませんが、そんなのは俺の性格からして絶対無理という結論に達したんです」。
こうして山口氏は1974年の社会人2年目に突入する。高校でも大学でも頭の中になかったプロ入りの夢を、初めて抱いて臨んだシーズンだった。その年に阪急からドラフト1位指名されて入団することになるのだが、もしも、その1年前にヤクルト入りしていたら、どうなっていたのだろうか。「東京でなんか生活したことがなかったですからねぇ……」と山口氏は笑みを浮かべながら話した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)