ドラ1指名なのに…知ったのは2週間後 「知りたいと思わなかった」パーティー三昧の日々

元阪急・山口高志氏【写真:山口真司】
元阪急・山口高志氏【写真:山口真司】

山口高志氏は社会人2年目の都市対抗で小野賞に輝いた

 社会人2年目にきっちり結果を出してプロの世界に飛び込んだ。1974年11月19日のドラフト会議で、松下電器の山口高志投手は阪急(現オリックス)からドラフト1位指名を受けた。プロ拒否を貫いた関西大4年時とは一転して「プロはどこでも行くつもりでした」と12球団OKの姿勢だった。しかし、ドラフト会議の日は社会人野球日本代表の一員としてキューバ遠征中。指名結果は2週間後に知ったという。

 プロ入りを意識して臨んだ社会人2年目の1974年、松下電器は東近畿予選で敗れて都市対抗出場(7月25日開幕、後楽園)を逃したが、山口氏は新日鉄堺の補強選手として出場し、快投を見せた。日産自動車(横須賀市)との1回戦(7月27日)は1安打完封の1-0、2回戦(7月30日)の日立製作所(日立市)戦には中2日で先発して延長14回を1人で投げ抜き、1-0でサヨナラ勝ちだ。

 準々決勝(8月1日)の東京ガス(東京都)戦は新日鉄堺のエース・中川善弘投手が先発して7回降雨コールドの3-0で勝ち上がり、準決勝(8月3日)の大昭和製紙北海道(白老町)戦には再び山口氏が先発。延長11回0-1でサヨナラ負けを喫したが、山口氏は計3試合に先発して33回2/3を投げて自責点1、防御率0.27の成績を残し、素晴らしい活躍をした選手、監督、チームが選出される小野賞を受賞した。

「(新日鉄)堺の中川もいいピッチャーでした。4試合を俺と2人で投げて(準決勝の)失点1だけで負けましたからね」と山口氏は話す。中川投手はのちに新日鉄堺の監督を務めて、トルネード投法でメジャーリーグでも活躍した野茂英雄投手(元近鉄、ドジャースなど)を育てたことでも知られる。補強選手での出場にはなったが、山口氏にとって最後の都市対抗。負けたことは悔しかったとはいえ、いい思い出にもなったようだ。

 都市対抗で結果も残して、プロに行きたいとの気持ちもさらに高まった。「あの当時は会う人、会う人、スカウトの人らに『お願いします』と言っていましたね」と山口氏は言う。その時点でもドラフトの目玉だったし、幼い頃から阪神ファンでもあったが「どこに行きたいなんて、偉そうに言える年齢(24歳)ではなかったのでね」とどこまでも謙虚だった。

 松下電器の選手として最後の戦いになったのは第1回社会人野球日本選手権(10月28日開幕、甲子園)。もちろん優勝を目指したが、初戦の2回戦(10月31日)で三協精機(中部)に0-4で敗れた。山口氏は7回に星山和久外野手に3ランを浴びるなど4点を失った。悔いの残る試合だった。松下電器を破って勢いに乗った三協精機がその大会を制した。

阪急からドラ1指名…キューバ遠征中で結果を知ったのは2週間後だった

 11月6日に山口氏は高校時代から交際していた裕見子さんと結婚。11月13日からは社会人野球日本代表としてキューバ遠征に向かった。そのため、運命のドラフト会議が行われた11月19日は日本にいなかった。当時のドラフトは予備抽選で選択指名順を決めるシステム。プロ入りを表明していた山口氏だったが、1番クジを引いた近鉄は同じ松下電機の福井保夫投手を指名し、会場はどよめいた。そして2番クジの阪急が山口氏を指名した。

 もっとも、山口氏がその事実を知ったのは、それから2週間後の12月2日だったという。「キューバからの帰り。メキシコシティで乗り換えるために1泊したんですが、そのメキシコの夜、ホテルで(団長の)山本英一郎さん(当時、社会人野球協会常任理事)に呼ばれて知らされました。(代表メンバーで)ドラフトにかかった選手は、みんなその日に言われたんですよ」。

 いくら情報が届きにくい時代だったとはいえ、それまでの間、ドラフトの結果は気にならなかったのだろうか。「団長くらいは知っていたかもしれませんが、あまり知りたいとは思わなかったですね。お楽しみは後に知ったらいい、一番最後まで残しておいてですかね」と山口氏は笑みを浮かべた。この遠征で社会人日本代表はキューバ代表との3試合を含む計9試合を行って、2勝7敗(代表戦は0勝3敗)だった。

 山口氏は5試合に登板。日本の2勝にはいずれもリリーフで貢献した。先発は代表戦の第8戦だけ。0-3で敗れ、負け投手にはなったものの、強力キューバ代表打線に唯一、通用した投手とも言われた。「キューバはめちゃくちゃ楽しかったですよ。ハバナから始まって島を転戦したんですが、試合は夜8時開始のナイター。終わったら夜中にホテルに帰って、朝まで向こうの選手たちとパーティーして酒の飲み合いです。それで次の日、また試合してって感じで……」。

 それこそドラフトのことも忘れるくらい、楽しかったということか。「仲間と部屋で飲んでいて山本英一郎さんの悪口を言っていたら、天井が筒抜けで次の日、散々嫌みを言われたこともありましたねぇ……」と山口氏は懐かしそうに話した。12月2日にメキシコで阪急1位指名を知った時は「関西で地元ですからね。どこでも行くつもりでしたけど、やっぱり、ああよかったって感じにはなりましたけどね」。

 その後、代表チームはロサンゼルスに移動して、帰国したのは12月9日。「羽田(空港)に着いて『日本の野球チームの方は一番最後に降りてください』と言われた。窓から外を見たらタラップの下にすごい人だかりができていたので、誰か偉い人とか有名人でも乗っていたのかなと思って降りていったら俺に一斉にカメラが向いてきたからびっくりしましたよ」。阪急1位、ドラフトの超目玉としての注目度はそれくらい高かった。プロでの剛腕伝説の幕開けだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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