“大笑い”で幕を開けたプロ生活 場違いだったスーツとネクタイ…戸惑いばかりの1年目
山口高志氏は阪急入団会見で10勝&新人王をぶち上げた
プロ生活は戸惑いから始まった。伝説の剛腕、山口高志投手(現・関西大学硬式野球部アドバイザリースタッフ)は、1974年ドラフト会議で阪急(現オリックス)に1位指名されて松下電器からプロ入りした。当時24歳。即戦力として期待の超大物ルーキーは入団会見で、10勝と新人王をいきなり宣言した。注目度はさらに増したが、実は最初の自主トレ、キャンプでは「他の人を見る余裕もなかった」と言う。
山口氏の阪急入団会見は大阪市の新阪急ホテルで1974年12月27日に行われた。12月9日に社会人野球日本代表のキューバ遠征から帰国。そこから入団交渉などが行われた関係で、他の新入団組よりも遅く、その時期になった。多くの報道陣を前に山口氏は「10勝は挙げたい。新人王を狙いたい」と高らかに宣言した。「自分一人のためにあれだけの人が集まってくれたし、あの雰囲気に負けない言葉をしゃべりたいなと思いました」。
契約金3600万円、年俸600万円(金額はいずれも推定)。加えて阪急に60歳まで何らかの形で面倒を見てもらえることにもなったという。「噂されたほど契約金が高くなかったから気を使ってくれたんじゃないですか」と山口氏は話したが、期待の大きさの証しだ。25歳の年がプロ1年目で、身長169センチと体格には恵まれていない。高校、大学、社会人と目一杯の投球をしてきたこともあり「プロでは5年くらい、30歳までやれればと思った」なかでの好待遇だった。
背番号は「14」に決まった。それまでつけていた神戸市立神港高校の先輩である宮本幸信投手がその年のオフ、広島にトレード移籍。「空いていると言われたので、喜んでって。背番号が決まった夜に神港のOBの集まりがあって、そのことを報告すると当時の部長や先生方が宮本さんの番号をもらえたってすごく喜んでくれたのを覚えています」。阪急の上田利治監督は関大の先輩。それもまた心強かった。
しかし、プロ生活は「全然思うようなスタートは切れなかった」という。とにかく、わからないことだらけだった。1975年1月、本拠地・西宮球場で行われた自主トレに初めて参加した時には「ネクタイとスーツで行って大笑いされました。周りはTシャツにジャンパーくらいだったんでね。自分としては新入社員の入社日みたいなものだから、普通にそういう格好で行ったんですけどね」。真面目さは伝わったようだが……。
OP戦デビュー登板でいきなり田淵と対戦…左飛に打ち取った
「西宮球場で風呂に入るのも勇気がいりました。先輩がみんな入ってから入りたいと思って……」。松下電器の先輩でもある福本豊外野手が「そんなん気にする世界とちゃうわい。自分が一番大事やからはよ入れ!」と言ってくれたそうだが、山口氏は「そう簡単には動けませんでしたね」と苦笑した。2月の高知キャンプでも「いつブルペンに入っていいかわからなかった。他の人を見る余裕もなかったですよ」と戸惑いの連続だった。
何とかキャンプを乗り切って、オープン戦は3月2日の阪神戦(高知)に6回から2番手で初登板した。最初の相手は阪神の主砲・田淵幸一捕手でオールストレート勝負。1ボール2ストライクから左飛に打ち取った。「田淵さんの時はあまり緊張してなかったと思うが、投げてから緊張感が出てきたというか、ひとつアウトをとって現実に戻ったら、思うようにボールを操れなくなった」。中村勝広内野手に右中間三塁打を許すなど1回2失点で降板した。
オープン戦2度目の登板は西宮球場での3月16日の広島戦で初先発した。結果は5回を投げて1安打無失点。試合は阪急が8-1で勝ち、勝利投手になった。「あの時は(関西)大学の応援団が来てくれたんですよ。吹奏楽とか、関大の応援歌とか……。ずっと一緒に闘ってくれました。あれはありがたかったですね」。おかげで、いつもの力を発揮することができたようだ。
そして迎えた開幕。「プロの雰囲気に染まるのはちょっと時間がかかった。アマチュアじゃないヤジとかもありましたしね。温かい声援ばかりじゃないなと思った。取材にしてもアマチュア担当の記者より、プロ野球担当記者の方がきつい質問とかがありました。1年目は違った意味での緊張感もありましたよ」。山口氏はそう振り返ったが、入団会見の時にブチ上げた新人王と10勝はいずれもクリア。やはりただ者ではなかった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)