球界復帰を恩師に直訴も…斡旋された一般企業「え?」 営業に転身、収入激減の4年間
立花義家氏は現役引退後、4年間サラリーマン生活を送った
1980年代の西武黄金期を支えた1人でもある立花義家氏(韓国プロ野球サムスン・ライオンズ3軍打撃コーチ)は1992年にNPBでのキャリアを終えた。翌年に台湾球界でプレーし、1994年から4年間のサラリーマン生活を送る中、営業先に掛かってきた電話がきっかけで計13年にも及ぶホークスの打撃指導者生活が始まった。Full-Countのインタビューで当時の心境を語った。
西武に15年間、阪神に1年間所属し、台湾で現役を引退した立花氏は帰国後、西武の元監督で、ダイエー(現ソフトバンク)の監督となっていた根本陸夫氏に挨拶。球団への“再就職”を依頼した。
だが恩師からの返答は「今は球界に戻るのではなく、社会人としてやっていきなさい。戻るタイミングがあれば、その時に考えればいい」。その“代わり”としてドリンクの自動販売機を設置する会社を紹介された。
「え? と思ったよ、さすがに。でも、仕事がないわけだから。家族もいるし、お願いします、と。営業の部署に配属されました」
会社勤めをするにあたり、球団から「野球ではお前のことは少しは知られているけど、社会人としてしっかり認めてもらえ」と送り出されたという。真面目な性格も幸いし「プロ野球選手としてのプライドはなかった」と振り返った。
「上司が営業先で『彼は元プロ野球選手なんです』と紹介してくれて、自分を知ってくれている方が結構多かったのは嬉しかったですね。先方も『どうしたの?』と驚かれていましたけど、『今はここで頑張らせてもらっています』と答えていました」
華やかだったプロ野球選手からの転身。当然ながら収入は激減した。「そこはカミさんが何とかやりくりしてくれていました」。良かったことは長男が入団した地元の少年野球チームに関われたこと。「それは楽しかったね」。
黄金期をともに支えた盟友から指名「一緒にやりませんか」
西武からの誘いがないまま4年の月日が過ぎたある日、立花氏が勤める会社へダイエー(現ソフトバンク)から電話が入った。立花氏はラジオ局の文化放送へ営業に出ていて不在。当時は携帯電話も所持していなかったため、会社から文化放送へ、立花氏宛ての“緊急連絡”が入った。
「ダイエーホークスから電話がきたよ!」。すぐにゆっくり電話ができる場所に移動し、ダイエーの球団幹部と話をした。「石毛さんが2軍監督になるのですが、一緒にやりませんか」。1998年から就任する石毛宏典氏が、2軍打撃コーチとしてかつての盟友を“指名”したのだという。
「やります!」。即答だった。待ち焦がれた球界復帰。立花氏のホークスでの指導者人生の始まりだった。
(湯浅大 / Dai Yuasa)