オリ入団を会社が拒否「もう1年頑張れ」 上位候補と連絡も…聞きたくなかった言葉
社会人3年目、久慈照嘉氏にオリックスから声がかかるも残留となった
好守巧打で注目を集めた日本石油(現ENEOS)の久慈照嘉内野手は、社会人4年目の1991年ドラフト会議で阪神に2位指名された。この年は日本石油の日本選手権優勝、全日本アマチュア王座決定戦制覇に貢献し、プロの評価をさらに高めた。前年の1990年にオリックスからドラフト上位候補として声がかかり、行きたい気持ちがありながら会社の方針もあって残留した。それもバネにしての1年後のプロ入りだった。
日本石油2年目の1989年からショートのレギュラーとなった久慈氏は、同年の社会人ベストナインに選ばれるなど、めきめきと頭角を現した。だが、3年目に肘を痛めた。「五輪代表候補の合宿に呼ばれて、頑張りすぎたんです。アピールしないとって思ったから。めちゃくちゃ強いボールを投げたりとか、無理な体勢で投げたりとか、いろんなことをやった結果、肘の靱帯系をやってしまって……。今で言う靱帯損傷。手術はせずに保存法で大丈夫だったんですけどね」。
そのため、守備に就けなかった。「結局、その年は“1番・指名打者”でした。打つだけの人でした。考えられないかもしれないですけど、金属バットだったから、そこそこ打てたんですよ」。1990年の社会人野球日本選手権で日本石油は準優勝。久慈氏も活躍し、指名打者の大会優秀選手に選ばれた。高卒での社会人3年目はドラフト解禁の年。注目選手の1人となり、実際にオリックスから上位候補として声がかかった。
だが、それは実現しなかった。「会社で呼ばれて『オリックスからドラフトで指名したいと話が来ているぞ。いい話だよなぁ。でも、会社的には出せない』と言われました。監督や部長とか会社の人ともミーティングさせてもらったんですが『肘を治して守備ができて打てて走っての方が、もっと評価が上がるんじゃないか』って。『お前がここでいなくなると、来年のチームにとってマイナス。オリックスからの話を励みにもう1年頑張れ』という言い方をされたと思います」。
当時のことを思い出しながら久慈氏は「僕からしたら、聞きたくなかった言葉でしたよ。行けるのなら行かせてくれよって思っていましたから。気持ちとしては行きたかったですから」と話す。結果、残留になったが、同時に初めてプロを意識したという。「僕にもチャンスがあるんだなってね。それまでは僕みたいなヤツが行けるわけないと思っていましたからね」。それが1991年の社会人4年目にもつながった。
阪神からドラフト2位指名、敏腕スカウトの田丸仁氏が担当だった
7月の都市対抗は1回戦負けだった日本石油だが、10月の日本選手権は初優勝を飾った。「準優勝が続いていましたからね。やっとですよ」と久慈氏は笑みをこぼす。さらに社会人日本選手権と大学日本選手権の優勝チーム同士で戦う「第1回全日本アマチュア野球王座決定戦」(11月16日、神宮球場)では斎藤隆投手(元横浜、ドジャースなど)、金本知憲外野手(元広島、阪神)らを擁する東北福祉大を11-2で破り、初代王座に就いた。
アマチュア野球王座決定戦は1997年までで廃止となり、現在は開催されていないが、久慈にとっては、それもドラフト会議(11月22日)直前の思い出の試合だ。その頃には「オリックスと阪神と横浜から話があった」という。この年は大学ナンバーワン遊撃手の関西学院大・田口壮内野手が注目され、阪神とオリックスがともに狙っていたが、田口はオリックスを希望。「それで阪神は僕に変わった、って聞きました」と久慈氏は話した。
阪神の1位は大阪桐蔭・萩原誠内野手で久慈氏は2位で指名された。「阪神が上位で(ドラフトに)かけるってことでしたが、2位はうれしかったですよ。どこの球団から指名されても行くつもりでしたけどね。もう30年以上経ったけど、パンチョ伊東さん(伊東一雄氏)のあの声で呼んでもらったのを鮮明に覚えています。“くじ”の発音がちょっと違っていてね……」。その日のうちに指名挨拶があり、背番号「8」も伝えられたそうだ。
阪神の担当スカウトは敏腕で知られた田丸仁氏。だが、久慈氏は日本石油のグラウンドによく姿を見せていた田丸氏を当初、スカウトと認識していなかったという。「田丸さんは僕が(社会人)2年目の頃から来られていました。自転車に乗ってね。僕は野球に詳しい、どこかのおじいちゃんって思っていたんですよ。それが(4年目の)夏以降に一度食事することがあって、その時に初めて“あ、阪神のスカウトだったんだ”ってわかったんです。びっくりしましたね」。
法政大出身の田丸氏は、木戸克彦捕手(1982年ドラフト1位)、猪俣隆投手(1986年ドラフト1位)、葛西稔投手(1989年ドラフト1位)ら法大選手とのラインも阪神で作り上げた名スカウトだった。久慈氏は「僕が最後(の担当選手)で、亡くなられたんですよね」としんみりと話す。1993年2月2日に66歳で他界した田丸氏も、久慈氏にとっては忘れられない人。プロに導いてくれた恩人のひとりだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)