“逆算”で強豪校選ぶも「全てが嫌でした」 想像を絶した寮生活…気疲れした上下関係
元西武の高木大成氏は甲子園、早慶戦への憧れから桐蔭学園へ進学
「レオのプリンス」などと呼ばれ、西武で10年間プレーした高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)は桐蔭学園(神奈川)3年時の1991年夏の甲子園に出場、一躍スター高校生となった。ただ、中学からの進学時は特に志望校もなく、同校を選択した裏には“したたかな計画”があった。
東京の「八王子リトルシニアリーグ」の主軸を担っていた高木氏は、3年時に全国大会に出場した。甲子園への憧れはあったが「どこに行けばいいのか分からずにすごく悩んでいた」という。
桐蔭学園についても「全然知らなかったんです。どこにあるかも知らない」。チームの主将が同校への進学を希望していたことで、自身も興味を持って調べてみた。
「ちょうどその年(1988年)の選抜で桐蔭学園がベスト4まで行っていて『ここなんだな』と。甲子園にも何度か出ているし、野球部から早慶の大学に進む人も多かったんです」
甲子園だけでなく、子どもの頃にテレビで見た早慶戦の雰囲気にも憧れていた高木氏にとっては最適な学校に映った。「甲子園に出たい、六大学にも行きたい、しかも早慶戦に出たい……欲張りですよね」。シニアの監督に思いを伝えると、実績が認められて野球推薦での入学が決まった。
「“先輩の言うことは絶対”は当たり前」
1学年20人ほどの少数精鋭。成長に伴う膝痛のため中学では捕手を務めていなかったが、「小学6年の時にやっていて楽しかったので」と再び希望した。
憧れの高校での寮生活は「全てが嫌でした」と苦笑いで振り返った。かつて教室だったという大部屋で11人が一緒に生活。壁には黒板などが残ったままで2段ベッドが並び、その間に置くタンスで“プライベート空間”をかろうじて確保した。床は硬く、部屋といっても「横になれるのはベッドの上だけでした」。
いわゆる体育会系の“昔の体質”もあり「上下関係は厳しかったですね」。土屋恵三郎監督の方針で掃除は学年ごとにエリアで担当し、洗濯も自分でやっていたため、1年生の過度な負担は少なかったが、「中学生から上がったばかりの自分たちには、3年生はだいぶ大人でしたから、一緒の生活はすごく気は使いましたね」。
練習後のグラウンド整備も「嫌でした」。日没で暗くなっているため、しっかり整備できているのかよく見えない。翌日に明るくなって、土がならされていない部分が発見されると、叱責を受けていた。
「それでも当時は“先輩の言うことは絶対”は当たり前でしたからね」。希望して入った桐蔭学園で激動の1年を終え、2年時の新チームでは主将を任された。高木氏はチームの中心選手として徐々に注目される存在になっていった。
(湯浅大 / Dai Yuasa)