学園祭で盗難被害…学校から「来ないで」 甲子園出場がもたらした“苦悩”

西武でプレーした高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)【写真:湯浅大】
西武でプレーした高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)【写真:湯浅大】

元西武の高木大成氏は甲子園で活躍し一躍、注目の高校生となった

 西武で10年間プレーした高木大成氏(株式会社埼玉西武ライオンズ事業部部長)は桐蔭学園(神奈川)3年時の1991年、主将として夏の甲子園大会に出場。珍しい「1番・捕手」として打率.545を残し一躍、プロ注目の存在になった。3回戦での敗退後には「何事かと思った」ほどに環境は激変。結局、プロ志望の意向がないことを表明し、慶大へ進んだ。当時のフィーバーぶりと進学を選択した胸中を明かした。

 強肩強打の「1番・捕手」。強豪校の主将も務め、甲子園で11打数6安打と大暴れした。3回戦で鹿児島実に敗れたが、地元に帰ると想像だにしない光景が飛び込んできた。

「新幹線の新横浜駅の改札を出たら大量の人がいました。何事かと思ったら、我々を待っていたんです。しかも自分のところにブワーッと。自分は3年の夏しか甲子園に出ていないのに、こんなに注目されていたなんて終わってから知りました。監督も大会期間中は選手にテレビを見せなかったのもあって」

 熱烈な歓迎だけではなかった。高木氏の元に届いたのはダンボール箱を埋め尽くすほどのファンレター。「正直、読めないくらい届きました。全て読むのは無理。なんだか怖かったです」。影響は学校生活にも及んだ。“スター球児”を見ようと、学校にまでファンが押しかける事態に発展した。

 ついには、3年秋の学園祭には「学校側から『来ないでほしい』と言われました。混乱を避けるために」と異例の依頼を受けた。やむなく高校生活最後の学園祭への参加を“自粛”。しかも「次に学校に行ったら私の上履きがなくなっていました」と苦笑した。

プロ入り“回避”を表明、慶大進学を希望「超満員になる早慶戦に出たい」

 甲子園のスターの進路に注目があつまる中、高木氏はドラフト会議に先立って、プロに進む意思がないことを表明した。「もちろんプロ野球選手は夢でしたけど、具体的な目標でいうと甲子園であり、東京六大学野球。特に超満員になる早慶戦に出たいという思いは中学時代からあったんです。あの時点でプロに行きたい思いはありませんでした」。

 神宮球場にも足を運び、早慶戦を観戦。慶大の野球に魅了された。「慶応と早稲田では全然、野球が違う印象でした。特に慶応は学生が中心となって野球をやっているというか、いわゆる“エンジョイ・ベースボール”を体現していて、ここでやりたいと思いました」。

 しかし、桐蔭学園から慶大への指定校推薦は1枠のみ。「その枠でエースが推薦をもらったんです。相当悔しかったですよ」。土屋恵三郎監督からは推薦の対象となっていた早大を勧められたが、慶大志望を貫き、面接や小論文などのAO入試で受験。総合政策学部に合格した。

 第1志望の慶大に受かったが、高木氏の通う神奈川・藤沢市のキャンパスから、横浜市の日吉にある野球部のグラウンドまで当時は電車で片道2時間強。「慶応に受かった瞬間に絶対に4年間で卒業するのが第1目標でした。単位を落とさないように必死で、1年生の時は、ほぼ練習に間に合いませんでした」。

 個別練習などで体は動かしたが、授業のない土日の試合に“本隊”に合流するような状況で、先輩からは「お前は土日の神宮にしかいないな。助っ人か」と皮肉のような冗談も言われたという。当然ながら野球で好成績は残せずに「これはまずいな」と危機感を抱いた。

 2年時から授業の選択科目を工夫するなどして、練習に打ち込むと、2年時に外野手、3、4年時に捕手でベストナインに選出。再びプロ注目の選手となり、1995年に西武を逆指名し、1位で入団を果たした。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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