契約交渉で口が滑り「トレードに出して」 1週間で即放出に愕然…不遇だった救援投手

広島、日本ハムなどでプレーした金石昭人氏【写真:片倉尚文】
広島、日本ハムなどでプレーした金石昭人氏【写真:片倉尚文】

金石昭人氏は1991年オフに日ハム移籍…契約更改交渉で「トレードに出してください」

 行ってみたら水が合った。プロ通算72勝80セーブをマークした野球解説者の金石昭人氏は、広島から1991年オフに日本ハムに移籍した。「トレードになるとは思っていませんでした。でも結果的に良かったです」。ドラフト外で入団して13年間を過ごした愛着のあるカープを離れ、新天地で鮮やかに変身してみせた。

「こんなんだったらトレードに出してくださいよ」。金石氏は、仲の良い球団幹部に対し、珍しく強い言葉を繰り出した。「本音ではなかったんですけどね」。1991年オフの契約更改交渉でのことだ。

 広島はこの年、リーグ優勝を果たしていた。守護神はサウスポー大野豊が務め、6勝26セーブで最優秀救援投手に輝いた。防御率1.17と安定感抜群だった。

 金石氏は31登板で4勝7敗2セーブ。「後半戦あたりからリリーフに入ることが多くなりました。役どころは抑えの大野さんが万が一打たれた場合の、その後のピッチャーです。ずっとブルペンで準備。でも大野さんが打たれることなんてない。大野さんで試合が終わる。投げたくても投げられない。そういったシーズンでした」。

 結果的に登板はなくとも「僕に与えられたような役割も大切。誰もピッチャーがいなくなっちゃいますからね」。数字には表れにくいものの、最後の砦を全うした自負があった。チームも優勝した。「だけど、あまり評価して頂けなかったんですよ。今の時代ならリリーフのそういった部分も見てもらえます。でも昔は先発、抑え以外は厳しかった」。そこで思わず「売り言葉に買い言葉」で“トレード志願”をしてしまったのだ。

叔父からの電話で知った移籍…“エース扱い”に感激

 1週間後。叔父で通算128勝投手の金田留広氏(元東映、日拓、ロッテ、広島)から電話がかかってきた。「お前、日本ハムに決まったぞ」。その後に広島球団から連絡があり、正式に通告を受けた。日本ハムの新監督は土橋正幸氏で、留広氏とは東映時代にコーチと選手の間柄。情報が叔父に先に伝わっていた。

 金石氏は愕然とした。「本当にトレードで、しかもこんなに早く……。びっくりしたし、複雑でした」。津野浩投手との交換トレードだった。

 当時のパ・リーグは西武が圧倒的な強さを誇っていた。日本ハムには地味なイメージしか浮かばなかったという。それでも「まあ東京には知り合いが大勢いる。本拠地はセでも経験している東京ドームだし」と気持ちを切り替えた。花の都への移住で生活費は高い。広島球団は年俸を増額し、その契約を日本ハム球団に引き継いでもらう手筈を整えて送り出してくれた。

 日本ハムのユニホームに袖を通してみると、温かい配慮に感激した。春季キャンプではスタートから実績組と同じグループに入って練習に取り組んだ。エース西崎幸広、3つ年上の柴田保光、武田一浩ら主力投手がどんどん質問にやって来る。

「みんな始めから声をよく掛けてくれるんです。投手王国のカープで、ある程度は実績を残していたからでしょう。僕は広島ではそこまでのローテーション投手じゃなかったんですが、日本ハムではエース扱いしてくれたのです」

全て任せてくれた土橋監督…「褒められたことしかないです」

 チームが変わればカラーも変わる。「広島の時は監督、コーチに対して僕らは『ハイッ』しかなかった。ところが日本ハムは良い意味でわがままな選手が多かった(笑)。反論したりするんです。『大丈夫かな』って最初は思ってました」。広島とはまた違った魅力を感じた。

 1992年シーズンを率いた土橋監督も金石氏を信頼していた。「僕に対しては何も言わなくて全部任せてくれました。トメさん(留広氏)と関係があるので、僕のことを理解してくれていたのでは。土橋さんも日本ハム1年目で、同じ移籍1年目の僕を頼ったのかもしれませんね。だから凄くやりやすかったです」。

 金石氏の移籍1年目は、チーム最多の14勝。完投も13。「土橋監督からは褒められたことしかないです」。

 口走った言葉から運命が動いた。「カープにそのままいたら野球人生は長くない、終わると感じていました。出してくれたカープのためにも結果を残さなければいけなかった。新しいチャレンジをしよう、そういう気持ちでファイターズに行けたから良かったと思います」。金石氏は両球団に感謝している。

(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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