止まらぬ黒星地獄で伊勢孝夫に「助けてくれ」 2か月で監督も辞任…消えていた“野村克也の財産”

ヤクルトでコーチを務めた伊勢孝夫氏【写真:山口真司】
ヤクルトでコーチを務めた伊勢孝夫氏【写真:山口真司】

伊勢孝夫氏は2010年途中、ヤクルトコーチに復帰…チーム立て直しに動いた

 ヤクルト→広島→ヤクルト→近鉄→巨人→SK(KBO)→ヤクルト。これは野球評論家、伊勢孝夫氏のプロ球団での指導者人生の道のりだ。1980年にヤクルトで現役を引退した後、この5球団と関わってきた。2013年にNPBのシーズン最多本塁打記録を更新したヤクルトのウラディミール・バレンティン外野手も教え子の1人。それまでの記録だった55本塁打を上回る60本塁打をマークしたが、実は伊勢氏はその数字をシーズン中盤までに“予言”していた。

 2010年シーズン途中から、伊勢氏はヤクルトの打撃アドバイザーになった。1995年以来の復帰だった。「前の年(2009年)でSKをやめて、評論家の仕事をしていたんですが、ヤクルトの球団取締役から、ちょっと助けてくれんかと言われたんですよね」。その年のヤクルトは5月に6連敗と9連敗を喫するなど、黒星地獄に陥り、高田繁監督が辞任し、小川淳司ヘッドコーチが監督代行に就任。伊勢氏にはその頃に声がかかった。

「評論家の仕事をやり始めたばかりだったし、せめてオールスターくらいまではそれをやらせてほしい、時間があるときは神宮には行くから、と言ったんですけどね」。そのため、まずは評論家業も兼務する打撃アドバイザーという形でヤクルトにかかわり、球宴後、正式に巡回打撃コーチとして入団となった。ヤクルトは小川代行になってから最大19あった借金を8月下旬に完済。順位も最下位から4位に上げ、最終的には貯金4でフィニッシュした年だ。

 小川代行は2011年シーズンから監督となり、伊勢氏は1軍総合コーチに就任した。「ヤクルトに戻った時、ミーティングはどうしているねんって聞いたらほとんどやっていなかった。(1990年から1998年まで監督を務めた)ノムさん(野村克也氏)のいい財産が残っているやろって資料室に行ったら、そんなものは一切、どこに行ったかわからんって『アホか、もう1回やり直す』と言ってやりましたよ」。

 総合コーチを2年、2013年はヒッティングコーディネーターを務め、野村監督に叩き込まれたID野球を伊勢氏は再びヤクルトに注入した。そこで出会ったのが2011年シーズンから加入したバレンティンだった。「あまり真面目じゃなかったなぁ。守備はちゃらんぽらん。でも打つことには一生懸命だったね。配球とかも教えたら考えよった。頭はなかなかシャープだったよ」。

NPB記録の年間60本塁打…2013年のバレンティンは「足元が違っていた」

 バレンティンは2011年から3年連続でセ・リーグ本塁打王に輝いた。3年目の2013年は、1964年の巨人・王貞治内野手、伊勢氏門下生である2001年の近鉄・タフィー・ローズ外野手、2002年の西武・アレックス・カブレラ内野手の55本塁打を超え、60本塁打を記録した。その年のバレンティンは球宴前までに32本塁打をマークしたが、それよりも前の段階で伊勢氏は60発を予言していたという。

「知り合いのアナウンサーにバレンティンの話をちょっと聞かせてくれないかって言われて、青山か赤坂だったかで『今年は60本打ちますよ』と言ったのを覚えていますよ。その頃、バレンティンは20何発だったかな。足元が、全然今までとは違っていた。練習と同じポイントで打てていた。ゲームになったら力みとか欲があって、足元が飛び出してしまうんだけど、ほとんど飛び出さなかった。だからひょっとしたら60本いくかもわからんよってね」

 本当にそうなったのだから、伊勢氏にしてみれば、それもいい思い出だし、1シーズン通して好調をキープしたバレンティンの凄さに敬服するばかりだ。近鉄コーチ時代のローズ、ヤクルトコーチ時代のジャック・ハウエル内野手、巨人コーチ時代のイ・スンヨプ内野手ら、伊勢氏には外国人選手との良好な師弟関係が目立つが「彼らはプライドが高いけど、ちゃんと接してやれば、わかってくれましたよ。バレンティンもそうでしたね」と笑みを浮かべた。

 2014年はヤクルト2軍チーフ打撃コーチとして若手育成に力を注いだ。真中満監督となった2015年は2軍中心の打撃アドバイザーとなり、その年限りで退団した。「球団社長からは『伊勢さん、長くやってね、頼むよ』って(ヤクルト2軍本拠地の)戸田に来るたびに言われていたので、まだやれるのだろうと思っていたら、オフになって球団から『今年で』って言われたんでねぇ……」。年末に大阪へ引っ越して評論家として再出発することになった。

現在は評論家活動と共に大阪観光大野球部の特別アドバイザーとして活躍

 2016年からは大阪観光大学の特別アドバイザーも兼務。「その年の1月に近鉄のOB会があって、そこで以前(近鉄の)球団広報だった岡(泰秀)に会った。彼が観光大学の監督と仲がよくて、紹介されて(特別アドバイザーを)やることになったんですよ」。それ以来、評論家業とともにずっと続けている。大阪観光大野球部のレベルアップを目指して「もう10年近くなるよねぇ」。

 大阪観光大からは2022年ドラフト7位で久保修外野手が広島に入団。2023年育成ドラフト3位で栃木ゴールデンブレーブスから中日入りし、2024年3月に支配下契約となった尾田剛樹外野手も大阪観光大出身だ。「この2人は足が速かったね。久保は肩も強かった。でも足の速さだけだったら、尾田の方が速いかな」。教え子たちの成長が楽しみでしかたない。

 三田高(現・三田学園)から1963年に投手として近鉄入りし、その後、野手に転向。勝負強い打撃で名将・三原脩監督から「伊勢大明神」のニックネームをつけられた。ヤクルトへのトレードも経験し、現役引退後は中西太氏の技術、野村克也氏の頭脳に影響を受け、指導者としても活躍。ヤクルト、近鉄などで辣腕コーチとして名を馳せた。教え子は数多い。

 79歳の伊勢氏は「ここまであっという間やね。だけど、いい野球人生やなぁと思う。あと何年やるかはわからないけどね」と話すが、まだまだ周囲の期待は大きい。ID野球の伝承者としての活動はもちろん、プロ野球の発展を願っての伊勢氏ならではの辛口評論も……。経験豊富な「伊勢大明神」の“役割”は終わっていない。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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