頭部死球、悪夢の13失点で「イップスのように」 両親の前で涙、告げた野球との“決別”

インタビューに応じるPL学園OBの上重聡さん【写真:小林靖】
インタビューに応じるPL学園OBの上重聡さん【写真:小林靖】

上重聡氏は立大に進学…松坂と投げ合った“ライバル”として注目された

 3月いっぱいで日本テレビを退社したフリーアナウンサーの上重聡氏はPL学園から立大に進み、活躍の場を東京六大学野球へと移した。だが、待ち受けていたのは甲子園で死闘を演じ、ドラフト1位で西武へ入団した同世代の松坂大輔との比較。Full-Countのインタビューでは「十字架を背負わされているような」など当時の苦しい胸の内を明かした。

「正直、私は大学の壁にぶち当たっていました」

 1年春のリーグ戦で立大は8連敗を喫したが、試合に敗れた後のチームの雰囲気には驚かされた。「負けて彼女と帰る人、飲み会に行く人もいた。PL学園では一つの負けは“死”を意味するくらいに重いものでした。“負けるってどういうこと!?”と思いましたが、自分も徐々にそこに染まっていってしまいました」。

 夏の練習で思うようなパフォーマンスを出せずに、秋は登板機会なし。一方で甲子園で投げ合った松坂はプロの世界で大活躍していた。「その頃、上重は……みたいに報道されて。松坂と同等に比べられるのが重圧というか、十字架を背負わされているような、押し潰されそうなものはありました。すごくなきゃいけないというか、『お前も松坂みたいに活躍しろよ』みたいな」。

 日に日に“呪縛”が重くのしかかってくるなか、“事件”は2年春の開幕前に起きた。「どんなことがあっても完投しろ」と指示を受けて臨んだ日大とのオープン戦で13失点を喫した。頭部への死球もあり「投げるのが怖くなったんです。13失点も初めてでしたし、死球の残像もある。イップスのようになり、投手をクビになりました」と告白した。

 そのまま2年の春は外野手としてプレーした。新聞などで結果をみた松坂から「お前、遊んでいるの? 外野で出ているじゃん。投げていないじゃん」。“ド直球”の言葉は「すごく辛くて。友達に弱みを見せたくないから強がって『そうなんだよ。遊んでいるんだよ』と返して」。外野を守っていてもスタンドからは「お前がいるのはそこじゃないだろ!」の声。「その時期は本当に辛かったですね。マウンドがすごく遠く感じました」。

 もはや限界。心身ともに疲弊した上重氏は両親に「野球を辞めて普通の学生に戻ろうかと思う」と告白した。親の前で初めて流した涙。「お前が辞めたかったら辞めていいよ。親としては甲子園に行かせてもらったし、お前にこれ以上やって欲しいことはないから、自分のペースでいけばいい」。愛情溢れる言葉と心に溜まっていた弱音を吐き出せたことで「気持ちが楽になったんです。もう一踏ん張りしようと前向きになれました」。

大きかった和田毅との“出会い”

 新たな“仲間”との出会いも大きかった。同世代の早大・和田毅(現ソフトバンク)の打席に立った時だった。「“あれ?”と。驚くほど速いわけではないのに、バッタバッタと三振を奪う。そうか、150キロを投げる松坂みたいにならなくても、投手はゼロに抑えることが一番なんだと気づきました」。

 投手としての自信を少しずつ取り戻した。和田のように打者に見づらくて打ちづらい投球を意識した。迎えた2年秋のリーグ戦ではマウンドに復帰。東大戦で東京六大学史上2人目の完全試合を達成するなど、シーズン5勝を挙げた。

「和田のフォームを真似して、でもグラブは松坂からもらったのを使って。松坂のようにマウンドで堂々としながら、フォームは和田みたいに打ち取っていく感じでした(笑)。2人をミックスして、マウンドで“誰か”になっていたほうが楽だったんです。その当時の上重だと不安しかなかったので」

「松坂大輔のライバル」という重圧から解放され、新たな「投手・上重聡」が復活した立大2年の秋となった。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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