ドラ1入団も2年で崖っぷち「クビにせい」 ベッドの上で伝え聞いた“恐怖の言葉”

元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】
元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】

的場寛一氏は故障続き…2年目オフに左膝靭帯の移植手術を受けた

 1999年ドラフト会議で阪神から1位指名(逆指名)された的場寛一氏はプロ入り後、怪我に泣かされた。1年目のオフに左膝のクリーニング手術を受け、再起を目指した2年目の2001年も苦闘が続いた。5月に1軍昇格したが、6月下旬に左膝痛で再離脱。オフには長期のリハビリを余儀なくされる靱帯の移植手術を受けた。そんな時に球団サイドから聞いたという。「クビにせいって話が出た」。わずか2年での崖っ縁だった。

 プロ1年目から左脇腹肉離れなど怪我の連続だった的場氏は、オフに左膝のクリーニング手術を受けた。「最初は膝蓋靱帯の炎症だったんですけど、深く調べるとそれが半分機能していないと分かったのでね。11月に手術して、12月と1月は坪井(智哉)さんとフロリダでのリハビリに行きました。関本(賢太郎)もいたかな、セキ(関本)も肩を痛めていたんでね。で、キャンプはファームスタート。開幕もファームで、そこそこ打ったんかなぁ」。

 もっとも、左膝はその時点でも万全ではなかったそうだ。「バッティングの調子はよかったんですけど、まだ膝は痛かったんですよ。気にしながら2軍の試合に出ていました。でも痛いとは言えないなぁって思いながら……」。ドラフト1位で期待されながら、結果を出せずにいることが自然と無理もさせていたのだろう。結局、その状態のまま5月中旬に1軍昇格となった。野村克也監督が率いて3年目。起爆剤として期待されてのことだった。

 復帰戦は5月15日の巨人戦。舞台は福岡ドーム(現みずほPayPayドーム)だった。途中から藤本敦士内野手に代わって遊撃の守備に就き、2打数1安打。8回に左翼線へ適時二塁打を放ち、プロ初打点をマークした。翌5月16日の同カードでは「1番・遊撃」でスタメン出場。スタンドから恩師の九州共立大・仲里清監督が見守っていた。「連絡はしていなかったんですけど、ベンチ上から『寛一!』って呼ばれて『ああ、監督』って。そういう記憶がありますね」。

 試合では4打数1安打。「(巨人先発の)チョン・ミンテから打ったんじゃなかったですかね」と的場氏は話した。ようやく戻ってきた1軍で2試合連続安打。走攻守3拍子が揃った大型遊撃手として、さらに飛躍していこうと張り切っていたことだろう。このヒットもプロ野球人生の中の通過点にしか思っていなくて当然だ。想像できるはずがない。結果的にこれが1軍でのラスト安打になるなんて……。

 思い出すのは“幻のプロ初本塁打”という。「神宮球場のヤクルト戦で、相手ピッチャーは山部(太)さん。フルカウントからスライダーが来て、レフトに大きい当たりを打ったんですよ。打った瞬間『行ったわ、初ホームランや』って思った。歓声もウワーって上がって“ヨシ!”ってやったんですけど、実はレフトのラミレスが(ファインプレーで)ホームランボールを捕っていたんですよ。二塁ベースを回ったところで、ヤクルトの人に『アウトだぞ』って言われて……」。

伝え聞いた星野監督の言葉に募った危機感「クビにせい!」

 喜んでいた姿を悟られないように悔しそうにベンチに戻ったという。「後で球団の人に言われたんですけどね。『お前、ガッツポーズしていたやろ』って。『いやぁ、入ったと思ったんですけどねぇ』と言ったら『みんなが見ていなかったらよかったけど、あれやばいぞ』って。それは覚えていますね」と的場氏は笑顔で明かした。もちろん、この時も次のホームランチャンスに向けて、気持ちを切り替えていたはずだが……。

 2001年の的場氏は6月7日の巨人戦(東京ドーム)まで11試合に出場し、20打数2安打1打点。「梅雨の時期でいつも左膝のことばかり考えて、サポーターをガンガンにして試合に出ていたんですけど、もう限界でした。最後は東京遠征でトレーナーと病院に行ったら『これはもう駄目だね』って言われました」。またしても無念の離脱だった。それでも早期復帰を目指してリハビリを続けたが、好転することはないまま、2年目シーズンは終了した。

「全然、よくならなくて『どうする』ってなって『先生に委ねます』と言ったら『手術した方がいいね』って。それで11月頃だったかな、今度は靱帯の移植手術を受けたんです。半腱様筋腱っていうのを抜いて、そこにはチタンでできているボタンを埋め込んで補強して……。また野球できるんかなぁって不安でしたね」

 そんな中、2001年12月に野村監督が辞任し、中日監督を辞したばかりの星野仙一氏が阪神監督に就任した。的場氏はベッドの上で監督交代を知った。九州共立大時代に「ウチに来い!」と中日入りを誘ってくれた闘将と再び縁ができたが、耳に入ったのは衝撃的な話だった。「編成会議で星野さんが僕の状況を聞いて『クビにせい!』って言っていたと聞いたんです。(2軍監督の)岡田(彰布)さんが止めてくれたそうなんですけど、恐ろしいなぁって思いました」。

 プロ入り後の怪我続きで、まともに戦力にならず、移植手術後で長期のリハビリを要する状況だったとはいえ、華やかなドラフト1位入団から2シーズンが終わったところでもう進退問題がでてくるとは、思ってもいなかった。背番号も「2」から「99」に変更となった。リハビリに励むしかないプロ3年目の2002年に向けて、もはや的場氏には危機感しかなかった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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