指揮官から20キロ減量指令 追い込まれた110キロの元HR王…使った“禁断の手”
山崎武司氏は1995年秋季キャンプで星野監督から20キロの減量指令
とどめはまさかの……。元中日の山崎武司氏(野球評論家)は、プロ9年目の1995年オフにダイエットに大挑戦した。ドラゴンズに戻ってきた星野仙一監督に秋季キャンプ中に呼び出されて、翌1996年の春季キャンプまでに20キロの減量を命じられたからだ。「『できんかったら、ユニホームを着させへんぞ!』って言われました」。最後の最後にあと5キロがなかなか落ちなかったそうだが、絶対に真似してはいけない仰天の作戦でノルマをクリアした。
山崎氏は1995年のプロ9年目シーズンで初めて2桁本塁打を放った。この年の中日は5位。6月には高木守道監督が休養し、徳武定祐ヘッドコーチが監督代行となったが、チーム状態は上がらず、球宴明けのシーズン後半からは島野育夫2軍監督が監督代行の代行になるグダグダ展開だった。その中で“未完の大器”は長い下積み時代を終える覚醒へのきっかけを、ついにつかんだ。
4月は2年連続開幕スタメンで起用されながら、調子が上がらず苦しんだものの、5月に3本塁打、6月には7本塁打を放ち、早くも2桁10号に到達。まだ1年を通して1軍にいることはできず、出場は66試合にとどまったが、最終的には16本塁打をマークした。「やっと自分の中で“あ、1軍で俺、やれるかもしれないな”ってなってきた。まぁ、まだぼんやりですけどね。1軍のピッチャーにようやく慣れてきたという感じ。そういうのがあった」。
その年のオフに星野監督が中日に帰ってきた。1991年以来の復帰で、第2次政権のスタートだ。秋季キャンプの終わりに山崎氏はダイエット指令を出された。「監督に呼び出しを食らったので行ったら『お前、今何キロあるんや』と聞かれた。『110キロです』と答えたら『そうか、じゃあ20だな。来年(1996年)2月1日のキャンプまでに20キロやせて来い。できんかんたら、どうなるかわかっているやろな! ユニホーム、着させんぞ!』と言われたんです」。
そこから減量地獄がスタートした。「食事制限して、走って、エアロバイクをこいで、サウナに入って……。その繰り返し。110キロもあったから10キロくらいは簡単に減ったんだけど、ダイエットって必ず停滞時期があって、そこで止まっちゃって、そこからは食べてなかったですもんね。食べたら太るから。俺は食いしん坊で、食べないと脳みそが回らないタイプなので、つらかったですよ。大変でした。もうオフなんかなかったですから」。
自ら風邪を引く“荒療治”…110キロ→88キロでキャンプ参加
体調も崩した。「(12月、1月の)2か月の間に何回か風邪引いた。免疫力がなくなるから、すぐ風邪を引くんですよ。それで2、3キロはすーっと減ったんですけどね」。最後はそれを“利用”したという。約束期日の2月1日がどんどん近づく中、「どうしても5、6キロ落ちなくて、どうしようと思った時に、これは風邪を引くしかないと思ったんです」。いくら何でも、のやり方だが、それほどまでに追い込まれていたということだろう。
「風呂に入って体を温めて、1月で寒い中、そのまま外に出て、ずーっといたら、そりゃ、風邪引くわね。それで熱が出て、そこから(体重が)ガーッと落ちて、2月1日に間に合ったんです。達成しました。結局22キロ落として、88キロになりました」。キャンプでは星野監督の前で体重計に乗ったそうだ。「監督に『乗れ』って言われて、乗ったら『おう』って。褒めてもくれなかったですけどね」と山崎氏は笑いながら話した。
「そこまで体重を落としたら、さすがに走っても軽いからいいんだけど、バッティングに影響があるかなと思って、その後ひそかに93キロくらいにはしました。キャンプで脂っこいものとかをたくさん食べたりしてね。93くらいをずっとキープはしていましたけどね」。そんな“地獄ダイエット”を経てキャンプ、オープン戦を乗り切り、1996年のプロ10年目シーズン、山崎氏は一気に39本塁打を放って、タイトルを獲得した。
「ダイエットがよかったってことなんでしょうねぇ。ホームラン王をとったもんね」。いきなりの大ジャンプアップ。山崎氏の本格的な“アーチスト”人生の幕開けとなったが、振り返れば、必ず思い出すのが1995年12月から1996年1月までの地獄の2か月間。苦しかった分、体も当時のことを覚えている。一生、忘れることはなさそうだ。