日ハム・木田GM代行が語るメジャー挑戦の日々 苦闘、悪夢の大事故、野茂英雄への感謝【マイ・メジャー・ノート】

タイガース時代の木田優夫氏【写真:Getty Images】
タイガース時代の木田優夫氏【写真:Getty Images】

日本ハム・木田優夫GM代行が米国視察…温めた旧交

 日本ハムのゼネラルマネージャー(GM)代行を務める木田優夫氏が、米国視察に訪れた。10年前に現役を引退し、GM補佐としてフロント入り。昨季までは2軍でコーチ、監督も務め現場の視点を養った。独立リーグを含め46歳までのプレーで米挑戦は深く来歴に刻まれている。信条は「チームと日本球界発展のために力を尽くす」。この言葉の文脈を読み取っていく。【全2回の前編】(取材・構成=木崎英夫)

 シアトルに初秋の風がそよぐ8月の終わり。懐かしい顔が試合を見つめていた――。マリナーズでプレー経験を持つ日本ハムの木田優夫氏である。

 昨秋に2軍監督を退任後、6年ぶりにフロントに復帰した。肩書も新たに「ゼネラルマネージャー(GM)代行」となり、要職就任後初めての米国視察である。テキサス州ラウンドロック、エルパソ、そしてワシントン州シアトルでは在籍したマリナーズ傘下マイナー3Aのタコマにも足を運んだ。

 精力的に動いた2週間の最終日に、かつてマウンドに上がったマリナーズの本拠地T-モバイル・パークを訪れた。対戦相手のジャイアンツにはマリナーズ時代のブライアン・プライス投手コーチがおり、ブルペンに歩み寄り旧交を温めた。戦力補強のための情報収集はもとより、米球界挑戦時代からの人脈を大切にする姿勢はGM補佐時代からずっと変わらない。

 久しぶりに踏んだ米国の地。メジャー挑戦の思い出を分けてもらうと、苦い経験が沸々と蘇ってきたようだ。

 メジャー挑戦は1999年のタイガースで始まった。

「分かってはいたものの現実を突きつけられたのがスピードでした。僕は中継ぎ陣に入りましたが、100マイル(約161キロ)を超えるマット・アンダーソン他、快速球を投げ込む投手が何人もいて。その頃、僕はいい時で96マイル(約154キロ)が出ましたが、そこではもう遅い方でしたから。正直、ショックでした」

1999年にタイガース入団→翌年途中に戦力外…NPB復帰も自由契約に

 山梨の日大明誠高から1986年のドラフト1位で巨人に入団。3年後に1軍に定着すると、当時の日本プロ野球最速列伝に名を連ねる156キロを記録。1998年にFA権を得ると、迷わずメジャー挑戦を表明した。しかし、憧れの聖地で自信があった直球の威圧感は消えた。

 タイガースに在籍した1年半での登板は51試合に留まった。2000年のシーズン途中に戦力外の憂き目に遭うが、次なる挑戦へ課題は明確になった。球速の向上より球種を増やし制球力を磨かなければ生き残れないと痛感。隆盛を極めていた動くボールの獲得と、日本時代に操ったフォークボールを再考することで新球種にする考えに至った。

 木田氏は、痛切な自覚を具体的にした。

「ツーシームはもちろんですが、投げていたカーブもろくなもんじゃなかったんで。まず少しでもそれを良くするという努力をしたのと、フォークの落とす方向を自分でしっかりと制御できるようにしようと取り組みました。ストライクからボールゾーンへと真っすぐ落とすだけではなく、シュート、スライダー気味にも落とすことを目標にしました」

 先を見据え、投球術に磨きをかけるために選んだのは日本球界への復帰。2000年途中から古巣のオリックスに戻った。球種を増やし幅が出た投球に手応えをつかんだ。しかし、持病の腰痛が悪化。2001年のシーズン終了後に自由契約を通達された。数球団のトライアウトを受けたが吉報は届かなかった。腹をくくった。2002年は腰の治療に専念し、心技体を整えていった。

マイナーの試合を視察する日本ハム・木田優夫GM代行【写真:球団提供】
マイナーの試合を視察する日本ハム・木田優夫GM代行【写真:球団提供】

2003年にド軍入団もキャンプ中に交通事故で大怪我…響いた野茂英雄の言葉

 2003年、34歳でメジャー再挑戦を決断。迎え入れてくれたのは名門のドジャースだった。しかし、木田氏はフロリダのキャンプ地で剥き出しのリアリティに殉じることになる。

 ドジャータウンで始まるマイナーキャンプの2日前だった。塩川哲平通訳を乗せオーランドへ日本食の買い出しに向う途中、夕暮れの高速道に濃霧が発生した。「スピードを落として少しゆっくりめで行くから」と塩川通訳に話したその直後、記憶はぶっ飛んだ。

 車線をはみ出した対向車と正面衝突。木田氏は救急車で、脾臓を破裂した塩川通訳はヘリコプターで病院に搬送される大事故に見舞われた。

 背筋が凍るような悪夢から目を覚ましたのは真夜中だった。誰かの声が聞こえてくる――。

「木田さん! 木田さん! 事故に遭ったの分かりますか? しっかりしてください! 木田さん!」

 小柄な男性がベッドに寄り添っている。意識は戻った。必死に声をかけ続けたのが、いま、まばゆいばかりの光を放っている大谷翔平を見守るドジャースの中島陽介トレーナーである。当時、マイナーのインターンとして奮闘していた。「僕は生きている」。ゆっくり眼球を動かすと、マイナーを統括するビル・バベシ氏の顔がはっきりと映った。

 そして翌日、駆けつけてきたのがチームメートの野茂英雄だった。バッグを手にしてこう言った。

「ボソッと『足は(地面に)着けられなくても、やれることはたくさんあるしなぁ……』って。響きましたね。無骨な男ですけどすごく優しいんです。あの時、僕は『大変な事故だったがめげるなよ』という野茂流の励ましだと受け取りました。まだちょっと意識はうつろでしたが気持ちが引き締まったのを覚えています」

全治60日の重傷も奇跡的に2日間で退院…同年8月にメジャー昇格

 バッグには下着の他、入院生活に必要な物が入っていた。排尿にはカテーテルを使わざるえない状態にあった木田氏の心に、余白が生まれた。「何があっても野球で生き延びていく勇気を野茂がくれました」と回想を結ぶ。

 足指の骨折と腰の打撲などで全治60日の重傷を負った木田氏だが、奇跡的に2日間で退院。ベロビーチのホテルで療養したが、杖を着きながらのリハビリを開始した。

 歩けるようになったある日のこと。オープン戦を客席から見ていると、声をかけられた。事故現場に向かったという警察官だった。「元気になってよかった!」。握手を交わすと、「どちらかの車が大きかったら誰かが亡くなっていたはずだ」と聞かされた。

 生命の淵まで行ったことによって拾い上げる思いがあった。

「対向車にはご夫婦が運転していたと聞かされましたが、あの事故で誰かが1人でも亡くなっていたなら僕は野球を辞めるつもりでした。塩川君は重症でした。申し訳ない気持ちでいっぱいだった、ずっと。でも、彼は元気になり、後にホークス、そしてジャイアンツで日本の野球にかかわる仕事に就きました。今はアメリカで独立して元気にやっています。本当、救われましたね」

 生きる喜びと支えてくれた人たちへの感謝の気持ちを胸に復帰を目指した木田優夫氏は、その年の8月、ドジャースでメジャー昇格を果たした。(後編に続く)

◯著者プロフィール
木崎英夫(きざき・ひでお)
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続ける在米スポーツジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。東海大相模高野球部OB。シアトル在住。

(木崎英夫 / Hideo Kizaki)

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