日本記録保持者が“無名”だった中学時代 私立よりも公立志望、苦労した野球以外の課題
1985年にNPB遊撃最多の41発…宇野勝氏は巨人・堀内恒夫に憧れていた
NPB遊撃手でシーズン最多本塁打をマークしているのが元中日、ロッテの宇野勝氏(野球評論家)だ。中日時代の1985年に記録した41本塁打はいまだに破られていない。ニックネームは「ウーヤン。」明るいキャラクターで、珍プレーの元祖的な1981年の“ヘディング守備”でも知られる伝説の強打者だが、小学生時代に興味を持っていたのは打つ方よりも投げる方だった。中学生時代は本格派投手で巨人のエース・堀内恒夫投手に憧れていたという。
「俺らの頃は、何かスポーツをやるといったら野球。まして田舎だったのでね、兄貴とキャッチボールをしたり、友達と集まって三角ベースとかね。テレビでは王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さんの巨人しかやっていなかったし、真似したりしながら遊んでいた。小学校3年生くらい。それが野球との出会いかなぁ……」。1958年5月30日生まれ、千葉県八日市場市(現・匝瑳市)出身の宇野氏は記憶をたどりながら、そう話した。
市立共興小学校時代は、野球チームに入っていなかったという。「当時、ウチの小学校にはなかったんでね。都会のチームに入ってどうこうということもなく、野球はまるっきり遊びだったね。ただボールが友達よりも速かったというのはあったかな。ボールを遠くまで投げるとかもね」。身体能力が抜群で「陸上の100メートルで市の大会に出た。走る、投げる、跳ぶに関しては他の子よりも上だったと思う」と振り返った。
打撃よりも投球。速い球を投げることに、より興味を持ったそうだ。プロ野球では巨人ファン。「巨人・大鵬・卵焼きの世代だったんでね。ピッチャーでは堀内さんだね」。1965年のプロ野球第1回ドラフト会議で、甲府商から巨人に1位指名された堀内はプロ1年目の1966年に16勝2敗の大活躍。1.39で最優秀防御率を獲得、さらに新人王、沢村賞に輝き、以降は巨人のエースとして長く君臨した。宇野氏は「堀内さんの最初の頃から見てきたんでね」と魅入られた。
甲子園の常連だった銚子商への進学熱望…一般入試で合格を勝ち取った
市立八日市場第一中学では軟式野球部に入り、1年生から投手。「試合でも投げたし、球は速かった。結構抑えたと思うよ。だけど、強いチームじゃなかったし、無茶苦茶勝っていこうというようなチームでもなかったしね。大会に出ても1回戦か2回戦で負けたんじゃなかったかな。何かそこまで熱心にやっていない感じ。ただ集まってやっていた感じだったね」と話すが、投手として非凡なものを見せていた。
1試合23奪三振をマークしたこともあった。「中学2年(1972年)の秋くらいかなぁ。市の大会で相手も何回戦かも覚えていないけど、そういうことがあったね。でも、その試合も負けたんだよ、0-1なんかで。エラーが絡んでね」。その年、巨人・堀内はプロ7年目で26勝をマークして最多勝のタイトルを獲得。宇野氏にとって憧れの右腕の活躍も刺激になったのかもしれない。「堀内さんが晩年の頃だけど、俺は(プロで)対戦したんだよね」と、しみじみと話した。
ただし、中学時代の宇野氏は多くの高校からスカウトされるようなことはなかった。「全然だね。俺のことを知っている人もいたかもしれないけど、それほど有名ではなかったからね。横芝敬愛のセレクションみたいなのに行ってピッチングした覚えがあるくらいで、あとはなかったなぁ」。最初から銚子商に進学したかったという。「理由はやっぱりテレビで見た甲子園の魅力ですよ。あそこに出たい。そのための一番の近道は銚子商だと思ったんでね」。
銚子商は1965年夏の甲子園準優勝など、毎年のように甲子園に出場していた名門。宇野氏が中学3年の1973年も春夏連続出場を果たしていた。「でも銚子商は公立校だから、ある程度、勉強もできないと入れない。そういう面では少し苦労したけどね」。野球の実力は全く関係なし。普通に受験勉強に励み、合格を勝ち取った。「うれしかったね。落ちることも考えていたわけだからね」。甲子園への第一関門突破。この頃はあくまで投手として行きたいと考えていた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)