キャンプ直前に鳴った電話→察した放出「断れないかと」 中日主砲が抗えなかった“通告”
宇野勝氏は1992年オフ、ロッテにトレード…秋季キャンプ直前にかかってきた電話
「はっきり言ってショックだったね」。元中日内野手の宇野勝氏(野球評論家)は1992年オフにロッテへトレード移籍となった。中日・高木守道監督体制になって1年目のシーズンを終え、秋季キャンプに向けて、荷物を用意している時にマネジャーから電話が入り、その翌日に通告された。ロッテの本拠地・千葉出身だが、もはや住み慣れた名古屋からできれば離れたくなかった。「断れないだろうかと思った」という。
1991年シーズン限りで星野仙一監督が退任し、現役時代に2代目ミスタードラゴンズと呼ばれた高木守道氏が新監督に就任した。宇野氏にとっては大先輩。気合を入れ直した。「3割、30本、3盗塁を目指す」とマスコミに向けて声を大にして、プロ16年目、1992年シーズンは幕を開けた。4月4日、大洋との開幕戦(ナゴヤ球場)には「5番・三塁」でスタメン出場。いきなり初回の第1打席で大洋・野村弘樹投手から先制の1号3ランを放った。
スタートはよかったが、好調をキープできなかった。看板の本塁打も4月は3本だったが、5月、6月は1本ずつ。7月は1本も打てなかった。開幕前の気合も空回り。6月頃からはスタメン落ちし、代打起用も増えた。8月に2本、9月に4本を放ったものの、規定打席に届かず打率.239、11本塁打、52打点と振るわなかった。チームも最下位に沈んだ。しかし、オフのトレードは予想していなかった。
9月24日の大洋戦(ナゴヤ球場)で斉藤明夫投手に浴びせた11号が中日でのラストアーチになるなんて、「4番・右翼」で出場して2打数無安打だった10月9日のシーズン最終の阪神戦(ナゴヤ球場)がドラゴンズ・宇野としてのラストゲームになるなんて夢にも思っていなかった。「はっきり言ってショックだったね。ホント、ショックだった。沖縄の秋のキャンプに行くために、荷物を詰めようかという時だったもんね。マネジャーから電話がかってきたのは……」。
ユニホームのズボンを長くした先駆け…「パジャマ」と野次られたことも
要件は「明日、球団に来てください」。その時点でトレードを覚悟したそうだが、翌日、正式にロッテ移籍を通達され、ショックは大きかった。中日からは宇野氏と長嶋清幸外野手、ロッテからは今野隆裕投手と横田真之外野手の2対2の交換トレードだった。「断れないだろうかと思った。球団にもそれを聞いた覚えがある。でもやっぱり駄目だったんだよね。断ったら出場停止になっちゃうから……」。受け入れるしかなかった。
当時は高木監督が“落合派分断”のために選手を動かしたと言われたが、宇野氏は関連してこんなことを話した。「俺が一番最初にユニホームのズボンを長くしたんだけど神宮の室内で守道さんに言われたんだよ。『見てみろ、落合もちゃんと(ズボンの下を)上げてやっているやないか!』って。でも、その時には落合さんも長くしたズボンを注文していたんだよ。で、次の日から落合さんのズボンも長くなった。バツが悪かったよ。守道さんは俺がけしかけたと思ったんじゃないかな」。
それ以来、高木監督はズボンについて宇野氏に何も言わなくなったという。「俺がズボンを長くした時、最初は相手チームから『なんや宇野、パジャマ着ているんじゃねーよ』って野次られた。次の年からは(他球団でも)長くする選手が増えたけどね。長い方が楽なんだよ。落合さんも同じ考え方だったけど、守道さんはそれが好きじゃなかったんだよねぇ」。ズボン問題がトレードのきっかけになったかどうかはともかく、宇野氏には何か感じるものがあったようだ。
もちろん、決まったものはしかたがない。いつまでもトレードをショック、ショックと落ち込んでもいられない。宇野氏は気持ちを切り替えて新天地・ロッテに向かうことにしたという。しかし……。「もう1回出直してやろうかという気にはなったんだけどねぇ」。そこには試練の日々が待っていた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)