ロッテにトレード加入も「名古屋に帰っていいよ」 7月に告げられた“事実上の戦力外”

中日、ロッテで活躍した宇野勝氏【写真:山口真司】
中日、ロッテで活躍した宇野勝氏【写真:山口真司】

宇野勝氏はロッテ2年目途中に事実上の戦力外…「名古屋に帰っていいよ」

 NPB屈指の遊撃手、伝説の強打者・宇野勝氏(野球評論家)は1994年限りで現役生活に終止符を打った。中日からロッテに移籍して2年目、プロ18年目のシーズン前半には事実上の戦力外を言い渡されていた。当初は現役続行の方向で、舞台裏では中日復帰の話が出ていた。しかし、それがご破算になって引退を決断した。「もう1回、最後にやってみたかったというのはあったけどね」と本音も漏らした。

 ロッテ移籍1年目の1993年開幕早々に脇腹を痛めて離脱したのが宇野氏の野球人生の流れを変えた。復帰後はレギュラーの座がなくなり、代打での出場が増えた。しかも出番はそれほど重要ではない場面が目立ち、心も折れた。「日本ハム戦になったら(元中日の)大島(康徳)さんに『駄目ですわぁ。こんなところにいても野球にならないです。やってられないです』みたいな話をして『一生懸命やらなきゃ駄目だぞ』って言われたこともあった」。

 だが、立ち直れなかった。59試合、166打数30安打の打率.181、3本塁打、9打点。不本意すぎる成績でロッテ1年目を終え、2年目はさらに状況が悪くなった。出場機会は前年よりも減った。「7番・二塁」で出た開幕4戦目の4月14日の近鉄戦(藤井寺)で江坂政明投手から放った一発が現役ラスト本塁打。金沢での7月13日の近鉄戦が1軍最後の出場となり「7番・二塁」で3打数無安打、4打席目は代打(山下徳人外野手)を出されて終了した。

 もちろん、その時はそれが最後になるとは思ってもいなかったこと。「セカンドを守ったとかも記憶にないなぁ。金沢で覚えているのはゲームじゃなくて、知り合いと一緒に伊良部(秀輝投手)と飯を食いに行ったことくらいかな」と苦笑する。「ただね、ファームに行く時に監督じゃなくて1軍の球団関係者から『ウーヤン、名古屋に帰っていいよ』と言われたんだよ。それは覚えている。要するに、もう使う気はないってことだよね」と悔しそうにも話した。

 元本塁打王など実績ある宇野氏には屈辱的な言葉だった。「戦力外と言われているようなものだからね。俺は『まだやるかもしれないじゃないですか。ここじゃなくて、違うところで野球をやる可能性があるじゃないですか』と言った覚えがある。それで(ロッテ2軍本拠地の)浦和に行って、練習を続けたよ」。ロッテではチャンスさえもなくなったが、このまま終わってたまるか、の意地もあったことだろう。そして中日復帰話が浮上した。

「シーズンの終盤かな、星野(仙一)さんから電話がかかってきて『お前、まだやる気あるのか』と聞かれたので『あります』と答えたら『わかった、じゃあ帰ってこい』って。その時は次の年(1995年)から星野さんが中日監督に復帰するって話だったんでね」。だが、幻に終わった。1995年からの星野監督体制自体がなくなってしまったからだ。「最初の電話から2週間くらいしてからかな、星野さんからまた電話があって『俺はやらないから』って」。

高木監督続投で立ち消えになった中日復帰…プロ18年で現役生活に幕

 1994年の中日はシーズン中盤まで首位・巨人から大きく引き離され、8月には高木守道監督の退任と星野監督のカムバックが確実視されていた。ところが終盤に巨人が大失速し、中日も猛追。勝った方がリーグ優勝という巨人との10・8決戦までもつれこんだ。結果、巨人に敗れたものの、この戦いぶりで高木監督の続投が決定し、星野監督の復帰はいったん消滅。それとセットで考えられていた宇野氏の復帰も急転、立ち消えになったわけだ。

「『中日でも成績が悪ければファームだぞ』って言われてもいたんだけど、星野さんが(監督を)やらないなら、俺もないんだなっていうのはすぐに切り替えられた。踏ん切りがついたというか、その時はもう他球団のテストを受けてまでやるつもりはなかったしね」。それで引退を決意した。プロ生活を18年で終えることにした。通算338本塁打、1620安打の成績を残し「ウーヤン」の愛称で人気もあった実力者は引退試合などをやることもなく静かにバットを置いた。

「確かに俺って何もなく消えていったなぁっていうのはあるけど、引退試合とかさ、ああいう感情の出るゲームってあまり好きじゃないから、別にそれはなくてよかったと思っているよ。変な話、なかった方がよかったかなって思うくらいだよ」と宇野氏はそこに悔いはないという。ただ、中日復帰に向けて一時はやる気になっていただけに、それに関しては「ちょっと後悔があったかな」とも口にした。

「チャンスがあっただけにね、もう1回、最後に何か燃えるものが少しは出るかなって思っていたし、やってみたかったというのは確かにあったよね。まぁ、あの時、36(歳)だったし、やってもあと1、2年だっただろうけどさ」。星野氏はその代わりにテレビ局の仕事を紹介してくれたという。「また電話がかかってきて『お前にも解説の道があるだろうから』ってね」。

 1981年の巨人戦(後楽園)での”ヘディング守備“が代名詞のように言われる宇野氏だが、1984年に本塁打王に輝き、1985年にはNPB遊撃手シーズン最高の41本塁打を記録したパワフルな強打も、強肩の守備力も抜きん出た存在だった。中日16年、ロッテ2年。現役最後は寂しい終わり方でも「ウーヤン」が伝説のスター選手であることに変わりはない。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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