安打直後に突然の悲劇「パキッと」 9か月の戦線離脱…掴み損ねた“居場所”
天谷宗一郎氏は2007年に初の開幕1軍…順風発進も試合中に左肩負傷
元広島外野手の天谷宗一郎氏(野球評論家)がプロで飛躍したのは7年目の2008年シーズンだ。初めて開幕スタメン出場をつかみ1軍に定着。お立ち台でのユニーク発言も話題になった。マーティ・ブラウン監督によって見いだされた形だが、打撃向上の裏にはそれより前のプロ5年目、2006年オフの練習効果があった。広島・山崎立翔2軍監督から付きっきりの打撃指導を受けて「変わった」という。
背番号が「69」から「49」に変わった2007年、プロ6年目の天谷氏は初めて開幕1軍入りを果たした。当初は代走、代打、守備固め要員だったが、4月22日の横浜戦(横浜)に「7番・中堅」でスタメン起用され、2打数1安打2四球1盗塁。「2番・中堅」で出た4月26日の中日戦(ナゴヤドーム)でも4打数2安打1盗塁と結果を出した。そこから「2番・中堅」で使われ、4月28日の阪神戦(広島)では杉山直久投手からプロ初本塁打も放った。
だが、天谷氏は「4月終わりから2番で使ってもらって、状態もよかったんですけどねぇ……」と悔しそうな表情を見せた。レギュラーの座をつかみかけたところで左肩を痛めて、戦線離脱を余儀なくされたからだ。5月2日のヤクルト戦(広島)、8回の第4打席だった。「ライト前に打って(ヤクルトのアーロン・)ガイエル(右翼手)がファーストに投げてきて、帰塁の時、ヘッドスライディングで戻って左肩がパキッとなったんです」。
それでも出場を続けて、延長10回の第5打席は中飛。「まぁ、それはアドレナリンで何とかなったってことでしょうね」。試合は広島が延長10回1-0でサヨナラ勝ちしたが「ゲームが終わった時には肩が上がらなくなって……」。5月3日に抹消となった。「関節唇をやったんで……。けっこう悔いが残るワンプレーだったと思います」。この年はそれで終わった。2007年は20試合、31打数8安打の打率.258、1本塁打、2打点、2盗塁だった。
治療には時間を要した。「リハビリとかで9か月くらいはかかったと思います。打つのはできるけど、投げるのがなかなかできなかった。(翌2008年)2月の、1軍が(1次キャンプ地の)沖縄から(2次キャンプ地の)日南に入ってくるタイミングで合流しましたが、それも“投げられるようであれば、1軍に合流させる”ってマーティが言っているということで、ちょっと急ピッチで投げられるようにしたって感じでしたね」。
2008年は自己最多の135試合出場…3打席足りなかった規定打席
そこから懸命に1軍に食らいついた。状態がまだまだ万全ではない中で打撃、走塁、スピードあるプレーでアピールを続けた。そんな姿がブラウン監督にも高く評価された。天谷氏は2008年3月28日の中日との開幕戦(ナゴヤドーム)に「1番・中堅」で出場。プロ7年目にして初の開幕スタメンを勝ち取った。開幕3連戦は1安打、1安打、2安打と3試合連続安打でスタートした。4月3日~4月11日にはは6試合連続安打と打ちまくった。
4月5日の横浜戦(広島)では延長10回にプロ初のサヨナラ打を放った。お立ち台では「おいしいお酒を飲んで明日も球場に来て下さい」と声を張り上げた。「打てばヒーローなんで、(そのコメントは)ネクストの時から考えていました」。翌6日の試合でも1本塁打を含む3安打3打点の活躍で2日連続のお立ち台。「その時は『明日は月曜日で仕事だからお酒はほどほどに』って感じのことを言ったヤツですよね。それも8回くらいから考えていました」と笑った。
4月11日終了時点では打率.386。勢いにも乗っていた。5月6日の中日戦(ナゴヤドーム)では「3番・左翼」とクリーンアップで起用されるなど、躍動が続いた。「右左の違いはあれど、同タイプで意識できる選手として1歳年上の赤松(真人)さんがいてくれたのも大きかったと思います」と天谷氏は話す。2008年1月に、FAで広島から阪神に移籍した新井貴浩内野手の人的補償で広島加入の赤松の存在が、自身の成長にもつながったとみている。
シーズン中盤から他球団のマークも厳しくなった中、2008年は135試合に出場。規定打席にはわずか3打席届かなかったものの、打率.263、4本塁打、24打点、13盗塁の成績を残した。「あの時は、そういうのに興味もなかったし、何とも思わなかったですけど、今となっては(規定打席に)到達したかったなっていうのはありますけどね」と話したが、それもまた無我夢中の結果だったに違いない。
振り返れば、打撃は背番号49になった2007年シーズンから上向いていった。これについて天谷氏は当時の山崎2軍監督に感謝する。「2006年のオフに山崎さんに付きっきりで1から教えてもらったんです。すがる思いでお願いしてバッティングの軌道から……。その時にずっと見てもらったのが、次につながったと思う。無茶苦茶よくなっている、これを続けていけばよくなるという感覚を山崎さんが作ってくれたんです」。
2007年は5月の左肩故障のためフルには発揮できなかったが、その時につかんだものが2008年に役立ち、大きな飛躍となった。天谷氏は「マーティには(1軍に)引き上げてもらってありがたかったですしね」としみじみと話す。自らの努力とともに、いろんな人に助けられてステップアップしていったわけだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)