イチロー氏の運命を変えた恩師の決断 “お酒の魔力”で夢実現…伝え続ける感謝
1994年に登録名を変更「その存在がなければ、カタカナのイチローにならなかった」
栄誉の時を迎えて、頭によぎるのは恩師の存在だった。マリナーズなどで活躍したイチロー氏(マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)は21日(日本時間22日)、米野球殿堂入り資格1年目で野手最高記録に並ぶ得票率99.7%で選出された。会見では弓子夫人への感謝を述べただけでなく、オリックス時代の監督・仰木彬氏への想いを語った。振り返れば、イチロー氏は節目のたびに仰木氏への言葉を残してきた。
この日BBWAA(全米野球記者協会)のオンライン会見に登場したイチロー氏は「まずは妻ですね。ずっと一緒に支えて戦ってきてくれた。まずは妻に感謝したい」と、感謝を届けたい人物を挙げた。そして、「たくさんの出会いがありました。その中で大きな影響を受けたのが仰木(彬)監督」と続けた。
いまや誰もが知っている「イチロー」という名前。1994年にオリックスの監督に就任した仰木氏が、同じく1軍打撃コーチに就任した新井宏昌氏の提案で、当時20歳の鈴木一朗をカタカナの「イチロー」で選手登録した。「(仰木監督)その存在がなければ、カタカナのイチローにならなかったと思いますし、これだけ人に知られる存在にならなかったと思います。野球という存在がなければ、僕は何者かになれたのだろうかと考えます。人との出会いと少しの運。努力することは当然としてその2つが人生に大きく影響するんだなと感じています」と、31年の時を経てイチロー氏は想いを噛み締めた。
登録名を変更した1994年、イチロー氏は日本プロ野球史上初となるシーズン200安打を達成。安打数が日本で大きな注目を集め、同年から「最多安打」がタイトルに制定された。その後、5年連続で最多安打、前人未到の7年連続首位打者に輝き、2020年オフにポスティングシステムを経てメジャーの扉を叩いた。
その後の活躍は言うまでもない。2001年は新人選手で歴代最多となる242安打を放ち、首位打者&盗塁王のタイトルを獲得。史上2人目となる新人王&MVPのW受賞を果たした。その後もヒットを積み重ね、シーズン200安打を10年連続で達成。2004年にはメジャー年間最多となる262安打を記録した。ヤンキースを経てマーリンズ時代の2016年8月7日(同8日)には、敵地・ロッキーズ戦で史上30人目となるメジャー通算3000安打の金字塔を成し遂げた。
試合後の会見、珍しくイチロー氏の目は潤んでいるように見えた。そしてこの時も口にしたのが、自身をメジャーへ導いた仰木監督の存在だった。
「仰木監督だったらおいしいご飯でお酒を飲ませたら……」
「3000を打ってから思い出したことは、このきっかけを作ってくれた仰木監督ですね。神戸で2000年の秋、お酒の力を使ってですね、僕が口説いたんですけど、その仰木さんの決断がなければ何も始まらなかったことなので、そのことは頭に浮かびました」
ドジャース・大谷翔平投手やパドレス・ダルビッシュ有投手ら、メジャーリーグにおいて日本人選手が“いる”ことは現在では普通のこと。しかし、イチロー氏が海を渡ろうとした時代は当たり前ではなく、移籍自体のハードルが非常に高かった。そして「日本人野手は活躍できるのか?」。メジャーの見る目も厳しかった。
仰木監督は1999年のオフにイチロー氏からのメジャー移籍を固辞したと言われている。そして1年が経ち、GOサインを下した。27歳という選手として脂の乗ったタイミング。もし時期を逃せば、イチロー氏の活躍が生まれなかった可能性もある。そして何より、恩師からの送り出しがなければ、プレーすることだって難しかった。
それゆえ、だろう。2019年3月21日の引退会見でも、イチロー氏は仰木監督への想いを明かした。これまで数々の決断に向き合ってきた。果たして最も考え抜いて過去を振り返るように、間を置きながらゆっくりと語り出した。
「これ順番つけられないですね。それぞれが一番だと思います。ただ、アメリカでプレーするために当時、今とは違う形のポスティングシステムだったんですけど、自分の思いだけでは当然それは叶わないので、当然球団からの了承がないと行けないんですね。その時に、誰をこちら側……こちら側っていう敵味方みたいでおかしいんですけど、球団にいる誰かを口説かないといけないというか、説得しないといけないというか。そのときに一番に浮かんだのが仰木監督ですね」
「その何年か前からアメリカでプレーしたいという思いを伝えていたこともあったんですけど、仰木監督だったらおいしいご飯でお酒を飲ませたら……飲ませたらってこれはあえて言っていますけど、これはうまくいくんじゃないかと思ったら、まんまとうまくいって。これがなかったら、何も始まらなかったので。口説く相手に仰木監督を選んだのは大きかったなと思いますね。また、『ダメだ。ダメだ』とおっしゃっていたものが、お酒でこんなに変わってくれるんだと思って、お酒の力をまざまざと見ましたし。でもやっぱり、しゃれた人だったなと思いますね。だから仰木監督から学んだもの、計り知れないと思います」
イチロー氏をかたどった存在にして原点。アジア出身選手初となる米野球殿堂入りの偉業の裏にあった仰木監督との出会い。コロラド、東京、シアトル。どこにいても忘れぬ想いに、その存在の大きさを改めて感じた。
(新井裕貴 / Yuki Arai)