大反対の妻と義実家に「駄目なら何でもする」 入団拒否から決意…腹括った“3年間”

熊野輝光氏は金メダル獲得のロス五輪後にプロを意識「挑戦しよう」
1984年ロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した野球日本代表の主将を務めた日本楽器(現ヤマハ)・熊野輝光外野手(現・四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は、同年11月20日のドラフト会議で阪急から3位指名されて入団した。当時27歳。ドラフト前の社会人野球日本選手権で準々決勝で敗退した後にプロ入りを表明していたが、大反対の夫人を説得してのことだった。「『3年やって駄目だったら何でもするから』って言いました」。新たな挑戦だった。
公開競技ながら五輪で金メダルを獲得したことが、熊野氏の野球人生を大きく変化させた。主将として日本代表を引っ張り「3番・中堅」で全試合に出場して、打率.429と活躍。これで再び、プロ注目選手になった。中大4年の22歳だった1979年のドラフトではヤクルトに3位指名されながら「プロでやっていく自信がない」などを理由に入団を拒否したが、それから5年後、27歳だったその時は考えが変わった。
「プロでもやれるんじゃないか、というか、プロでやってみたいという気持ちでした。オリンピックに出て、金メダルも取れて、アマチュアではやることはやったかなと思った」。日本楽器に1歳年上の4番打者で功労者の武居邦生内野手がいたこともあるという。「現役をやめた後の(指導者になる)ことを考えたら、日楽には武居さんがいるし、僕はいなくなった方がいいのではないか、会社も(将来のコーチ人事などに)困らないのではないか、とその時は思ったんですよねぇ……」。
年齢を重ねるごとに遠ざかっていたプロ入りだが、ロス五輪の活躍で注目度もアップして、複数球団のスカウトから声もかかっていた。入団すると1年目が28歳の年になるが、熊野氏は「挑戦しよう」と決めた。だが、事は簡単ではなかった。「僕は25(歳)で結婚したんですけど、嫁さんは(日本楽器の本社がある)浜松出身だったし、大反対でした。実家の親もね」。どうなるかわからないプロよりも、このまま日本楽器にとどまる方がいい、との意見だった。
「日楽もそれなりに景気がよかったんでね。全日本に入ったりすると等級も上がって、同年代よりもボーナスとかも高かったし……。だからそのままいてくれたらってことだったんですけど、僕の中ではやっぱり1度はプロでやってみたいいう気持ちが強かったんです」。かなりの時間をかけて佳子夫人らを説得したそうだ。「3年やって駄目だったら、後は何でもするからってね。最後はもうしょうがない、みたいな感じでした」。
ドラフト3位で阪急入団「絶対ないんだろうな思っていた」
10月下旬に大阪球場で行われた社会人野球日本選手権で日本楽器は準々決勝で電電東海に敗れたが、熊野氏は外野手部門で大会優秀選手に選出された。「その時にプロ入りを表明しました。セ・リーグだろうが、パ・リーグだろうが関係なく“どこでも行きます、私、売ります”みたいな感じでね」。1984年は社会人野球のベストナインにも外野手で選ばれた。「オリンピックが評価されたんでしょうけどね」。プロ入りに向けてそれも大きな励みになったのは言うまでもない。
11月20日、東京・千代田区のホテルグランドパレスでプロ野球ドラフト会議が行われた。当時は全順位入札制で、競合した場合は抽選となり、そこで外れた球団は1位、3位などの奇数指名順位ならウエーバー方式、2位、4位などの偶数指名順位なら、折り返してのウエーバー方式で希望選手を指名していくやり方だった。熊野氏にはドラフト3位でヤクルトと阪急が競合。抽選の結果、阪急が交渉権を獲得した。
ヤクルトは入団を拒否した中大時代に続いての3位指名だったが「もちろん、ヤクルトになっても行っていました」と熊野氏は言う。阪急については「スカウト部長の藤井(道夫)さんは高松の人(高松商出身)なんですけど、ドラフト前に『お前、よくプロに行く気になったなぁ』とか言われて、阪急は絶対ないんだろうな思っていたので、阪急と聞いて、えっ、みたいな感じでしたね」と苦笑しながら振り返った。
「阪急の外野には福本(豊)さんや簑田(浩二)さんらがおられましたし“えらいところに何で”とも思いました。正直ここじゃ、ちょっとしんどいかなって感じにもなりました。よりによってってね」とも付け加えたが、もはや、やるしかないと腹を括った。「そりゃあ、勇気はいりましたよ。でも、それなりの覚悟をしてプロ入りすると決めていましたからね」。新たな挑戦を認めてくれた妻のためにも熊野氏は奮い立った。オールドルーキーとしての闘いが始まった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
