“投手失格”の烙印も… 完全試合で「申し訳ない」、指揮官が伝えた「馬鹿野郎」

始球式に登板した立大OBの上重聡氏【写真:加治屋友輝】
始球式に登板した立大OBの上重聡氏【写真:加治屋友輝】

東京六大学野球連盟100周年記念のレジェンド始球式に登場

 東京六大学野球で3日、立大OBでフリーアナウンサーの上重聡氏が連盟結成100周年記念の「レジェンド始球式」に登場。大阪・PL学園高のエースとして甲子園を沸かせ、立大2年の2000年には連盟史上2人目の完全試合を達成した野球人生の意外な“裏側”を、本人が明かした。

 立大のユニホーム姿でマウンドに上がった上重氏は、ダイナミックなフォームでボールを投じるも、捕手の手前でワンバウンド。「打者に当ててはいけないという気持ちが強すぎて、叩きつけてしまいました」と頭をかきつつ、「神宮のマウンドは大学卒業以来23年ぶり。懐かしさとともに、緊張と興奮がよみがえってきました」とトレードマークのさわやかな笑顔を浮かべた。

 上重氏は大阪・PL学園高3年の時、エースとして春夏連続の甲子園出場を果たしたが、いずれも松坂大輔氏を擁する神奈川・横浜高に敗れた。特に準々決勝で対戦した夏は、球史に残る延長17回の死闘。17イニングを250球で完投した松坂氏に対し、上重氏も7回からリリーフでマウンドに上がり、残りの11イニングを145球で投げ切ったが、結局7-9で惜敗した。

 立大進学後は2年生の秋の東大2回戦で、連盟史上36年ぶり2人目の完全試合を達成。完全試合はその後、2013年の春にも早大の高梨雄平投手(現巨人)も達成したが、今年が100周年の東京六大学の歴史の中でわずか3人しか成し遂げていない偉業である。

 一見、高校、大学を通じて輝かしい実績を誇った上重氏だが、その裏には人知れぬ苦闘があった。「完全試合を達成した年は、春にイップスになって外野に転向。投手を“クビ”になりました。親に『野球をやめたい』と漏らしましたが、『最後までやり抜きなさい』と言われ、秋から何とか投手に戻ることができたところでした」と振り返る。

「6回まで投げて降板」のはずが偉業達成、意外だった卒業後の就職先

 完全試合の裏話は、それだけではない。「本当はあの試合では、僕は6回まで投げ、後は卒業する4年生の投手3人が1イニングずつ投げる予定でした。ところが、思いがけずパーフェクトが続いてしまった。8回を投げ終えた時、監督に『降板させてください』と申し出たのですが、『馬鹿野郎、完全試合は過去に1人しかやっていないんだ。先輩たちに頭を下げて『もう1イニング投げさせてください』と言ってこい』と叱られました」と明かす。

 3人の先輩のうちの1人は、巨人にドラフト2位(逆指名)で入団した上野裕平氏である。上重氏は「『達成してこい』と送り出してくれた4年生のやさしさがなければ、完全試合はなかった。うれしいのですが、心のどこかで申し訳ない、複雑な気持ちです」と述懐する。

 プロになることを夢見ていた上重氏だったが、その思いは果たせなかった。「僕は松坂と投げ合ったという十字架に苦しんでイップスになり、もう1度プロが見えてきたと思った時に、今度は完全試合をしたという十字架を背負い込んでしまいました。これは高梨くんも言っていましたが、投げる度に“完全試合を達成した投手”と見られる。僕はそのプレッシャーに負けてしまいました」と胸の内を吐露した。

 史上2人目の快挙を達成した時でさえ「申し訳なさ」を感じてしまう繊細さゆえに、本人にしかわからないプレッシャーがなおさら重くのしかかったのかもしれない。

 卒業後の進路は意外にも、日本テレビのアナウンサーだった。「(松坂氏をはじめ)同級生がたくさんプロ野球選手になっていたので、僕も違う形で野球と関われたらと思いました。もともと高校時代に、プロ野球がダメならアナウンサーになりたいという気持ちもありました」。

 時は流れ、昨年3月に日本テレビを退社し、フリーのアナウンサー、タレントとして活動中。苦しい思いもしたが、上重氏と野球の濃厚な関わりは生涯続くに違いない。

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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