野球部結成に「駄目だ」 猛反対からの全国V…社会人クラブが受け継ぐ箕島名将の遺志

通算6度の社会人クラブ選手権優勝を誇るマツゲン箕島硬式野球部【写真提供:マツゲン箕島】
通算6度の社会人クラブ選手権優勝を誇るマツゲン箕島硬式野球部【写真提供:マツゲン箕島】

関西スーパー大手「松源」がサポートする社会人クラブ「マツゲン箕島硬式野球部」

 和歌山・有田市で活動する社会人野球クラブ「マツゲン箕島硬式野球部」には春夏通じて甲子園4度の優勝を誇った箕島の名監督・尾藤公さんの教えを守る一人の指導者がいる。西川忠宏監督は1977年の第49回選抜高等学校野球大会で尾藤監督のもとで優勝を成し遂げたメンバー。“託された”思いから約30年。企業・行政・野球の三位一体の取り組みは、少子高齢化が進む地方都市の活性化モデルとなっている。

 野球部は地元スーパーマーケットチェーン「松源」が選手たちに安定した雇用を提供することで、若者が故郷で野球を続けられる環境を実現。昨年「第48回全日本クラブ野球選手権大会」で優勝するなど、日本選手権7回出場の実績を持つ。1996年の創部に至るきっかけは「箕島高校を応援する方法はないか」という気持ちから始まった構想だった。

 ある年の野球部OBたちとの忘年会での会話が発端となった。西川監督は帰りの電車で興奮しながら。後輩たちに電話をかけ、チームを発足することを告げていった。そして、恩師・尾藤監督に相談すると「安易な気持ちで立ち上げるなら駄目だ」と一蹴された。「当時の私は30代半ばで、勢いだけで物を言っていました」と西川監督は照れくさそうに振り返った。

 その後の約8か月。西川監督たちは立ち上げる狙いや目的、事業計画などをしっかりと立て付けた。翌年夏にようやく「お前たちがそこまで言うのであれば応援しよう」という言葉を引き出し、尾藤監督の説得に成功。母体となっている「箕島球友会」として、地方創生とスポーツの可能性を示す存在になる道のりをスタートさせた。

 立ち上げ当初は人集めに苦労した。「ノックするにもノッカーが足りない。OBは強い時は集まるけど、弱くなると集まってこない」。そこで西川監督は組織作りに奔走した。資金集めでは尾藤監督の後押しが大きかった。地元企業を回り、わずか1週間で2000万円が集まったという。「尾藤さんがそう言うなら賛同しましょう」……。その名は地域の人々の心を動かす力を持っていた。

 こうした礎があり、クラブ選手権では通算6度の優勝、日本選手権7回出場という実績につながっている。名門・箕島高校の”血”を引き継ぐため地元への愛着も深い。選手の多くはスポンサー企業の松源に勤務し、退部後も会社に残る選手も多い。企業・行政・野球の三位一体の取り組みは、少子高齢化が進む地方都市の活性化モデルとなっている。

 今も目を閉じると鮮明に思い出す記憶が西川監督にはある。社会人野球クラブ選手権で初優勝したときのこと。試合後、その報告の電話を尾藤監督にすると「帰ってきたらすぐ家に来い!」。恩師はそう答えた。遠征だったため、夜行バスで和歌山についた翌朝4時、西川監督が尾藤さんの自宅を訪ねると、一晩中、待っていた恩師は、無言で西川監督を抱きしめた。「今でも鮮明に覚えています。その思いは忘れられません」。それを思い出し、涙を流したのは一度や二度ではない。

名門箕島で甲子園V経験のあるマツゲン箕島硬式野球部の西川忠宏監督【写真提供:マツゲン箕島】
名門箕島で甲子園V経験のあるマツゲン箕島硬式野球部の西川忠宏監督【写真提供:マツゲン箕島】

「託す」精神――野球から地域へ

 30年近く指揮を執る中で、西川監督は尾藤監督から学んだことを大切にしている。

「野球は1人でするものじゃない」「自分を犠牲にして後ろに託す」「野球は人間の生きざまが表れる」。これらの教えは今も選手たちに伝えている。特に「託す」という言葉を尾藤監督は好んで使っていた。「犠牲バントは自分を犠牲にして、次の打者に託す。その連鎖がチームを勝利に導く。人生も同じだと教えられました」とその真意を汲み取っている。その考え方は今、野球の枠を超え、地域全体を活性化する原動力となっている。

 NPO法人化したことによって、ふるさと納税を活用した支援の拡充も図っている。2015年度から地元・有田市の支援先に採用され、年間で多くの支援を受けることができた年もある。また、2015年度から市のパートナー制度に参加し、月1回の草刈りや清掃などの地域活動にも貢献。市からは「若い力」として感謝され、地域に支えられ、地域を支える好循環が築かれている。

 創設から約30年。チームはスポーツクラブを超えた存在になった。当初の目的だった「母校を応援して強くする」という点では「これが一番難しいです……」と西川監督は苦笑するが、箕島高校だけでなく地元の多くの高校生がチームの練習に参加するようになった。「高校生たちが学んで帰ってくれる環境は作れたかな」と母校を超えて、地元野球界全体を支える存在になれたことに手応えを感じている。

 有田市には、毎年10人近くの若者が移住し、選手はスポンサー企業である松源の店舗に勤務する。退部後も会社に残り、有田市に定住するといった例が多い。「球場周辺の清掃をすると近所の方が差し入れを持ってきてくれる。野球だけじゃない存在になれたことが誇りです」。

 64歳になった今、人生の半分をこのチームに捧げてきた。人に地域に、託し、託される関係性。それは亡き恩師から受け取り、ひたむきに走り続けてきた道のりの証し。その実践してきた精神は、今や和歌山の未来を照らす灯台となっている。

(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

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