今夏勇退…桐光学園・野呂雅之監督が貫いた「信念」 選手に浸透する「気配と気配り」

日大藤沢戦のあと、勇退する野呂監督に送られた温かい拍手
熱戦が続く夏の高校野球神奈川大会。20日に行われた5回戦では、長きに渡り、神奈川を引っ張ってきた名将の最後の夏が終わった。1984年、創部7年目を迎えたばかりの桐光学園の監督に就き、これまで春夏5度の甲子園出場を成し遂げた野呂雅之監督。今夏限りでの勇退を表明していたが、日大藤沢に4-6で敗れた。
野呂監督は三塁側応援席への挨拶を終えたあと、泣き崩れる選手たちに柔らかな表情で声をかけると、そのままゆっくりとスタンドに近付き、感謝の意を口にした。
「長いこと、ありがとうございました」
そして、3秒、5秒、7秒……。スタンドに深々と頭を下げると、応援席から大きな拍手が沸き起こった。ベンチに戻ろうとすると、今度はバックネット裏や一塁側の日大藤沢応援席からも拍手が起こり、体の向きを変えて、もう一度深々とお辞儀をした。
ここまで歩んできた道、刻んできた功績をスタンド全体が称えているような温かい拍手だった。
「ずっと応援してくれた関係者の方もいれば、高校野球ファンの方もおられたと思います。特に神奈川の高校野球のファンの方々は熱い想いがあり、野球を深く知っている。そういった方々から叱咤激励をいただいたこともあり、お礼の気持ちを込めて、少し長めに(挨拶を)させていただきました」
早稲田実から早稲田大を経て、23歳の若さで桐光学園の監督に就任。「野呂監督の歩みが野球部の歩み」といっても過言ではない。
1998年夏(東神奈川大会)に初の決勝進出を果たすも松坂大輔(元西武など)がいた横浜に3-14で敗戦。2000年夏には2度目の決勝進出を果たすも、またも横浜に3-5で敗れた。ここから、目標を「甲子園出場」ではなく「日本一」に定め、パワーもスピードもメンタルも、全国トップのレベルを目指して取り組むようになった。
2001年にセンバツ初出場を遂げると、2002年夏には神奈川大会初優勝。以降、2005年夏、2007年夏、そして松井裕樹(パドレス)を擁した2012年夏と、春夏計5度甲子園の土を踏んだ。

野呂監督が貫いた「信念」…卒業後も活躍するOBたち
野呂監督には20年以上前から、指導者として大切にしている「信念」がある。
「自分で自分を育てる」「必要とされる人間、応援される人間になる」
高校野球に取り組む目的はこの2つ。甲子園に行ったとしても、目的から外れるような活動をしていたら、高校野球の意味は薄れる。
2017年に中野速人が明治大で主将を、2022年には山田陸人(ENEOS)が副主将を務めるなど、大学野球界で幹部を任されるOBも多い。高校時代の教えが土台になっているからこそ、であろう。
2024年1月26日、センバツ出場校の発表日に印象的な出来事があった。前年秋の関東大会でベスト8に入り、東京関東の最終枠を争う立場にいたが、選考委員会で「桐光学園」の名が呼ばれることはなかった。
重たい空気に包まれた記者会見場。取材に臨んだキャプテンの森駿太(中日)は、前をしっかりと見据えて語った。
「こんにちは。桐光学園野球部キャプテンの森駿太です。本日はお忙しい中、足を運んでいただき、本当にありがとうございます。自分たちの目標はあくまでも夏の甲子園で優勝することです。そこを変えることなく、日々練習していきます」
素晴らしい振る舞いだった。この状況で、取材陣へのお礼から始まるとは思ってもいなかった。後日、野呂監督にこのときの話をすると「キャプテンが対応する形になったけど、ほかの選手であっても、森と同じような対応ができたと思います」。日頃からそれだけの教育をしている、という自負が感じ取れた。
また、前述した秋の関東大会(栃木開催)で、たまたま自由時間にカフェに立ち寄っていた桐光学園の選手たちに遭遇したことがあった。過去に取材をしていたキャッチャーの中村優太(明大)に声をかけたあと、離れた場所で仕事をしていると、しばらくしたあと、中村がわざわざ私のもとに来て、「お先に失礼します」と声をかけてくれた。一人の高校生が、なかなかできることではないだろう。
「気配」を感じるには「気配り」が必要
「これももうずっと言い続けていることだけどね」と、野呂監督が取材のたびに語るのが「気配と気配り」の話だ。
野球で勝つためには、周りの状況を観察し、「気配」を察知する力が大事。ただ、それはグラウンドだけで養えるものではなく、日常生活からつながっているもの。「気配」を感じられるようになるには、周りへの「気配り」や「気遣い」が大切で、それが野球にも生きてくる。
この夏、捕手の峯岸鷹をはじめ、4人の1年生が活躍した。峯岸に「気配と気配り」について聞くと、野呂監督から入学後すぐに教わったという。
「周りに気を配りながら、落ちているゴミやグラウンドの石を拾うことで、自分自身は気持ちが楽になるというか、いろいろな準備が早くできるようになりました。それが、打席での余裕にもつながっています。ひとりひとりのちょっとした気配りが、チームのつながりを生むようにも思います」
加えて、野呂監督から教わったことの一つに、「人のために動く」がある。
1年生が出場するとなれば、必然的に3年生の出場機会が減る。イニング間のピッチング練習で、捕手の峯岸がボールを受けられないときは、背番号2を着けた3年生の大石智己がサブ捕手を務めた。大石はいつも二言、三言、峯岸と笑顔で会話を交わしてから、ベンチに戻っていた。こうした3年生の姿を見れば、大石も「先輩のために」と思うものだろう。
「大石さんから、『厳しくなったらベンチを見ろ』と言ってもらっていて、ちょっと声をかけてもらうだけでも、冷静になれます」
野呂監督も「1年生が力を発揮できるのは、さまざまな気配りをしている3年生のおかげ」と口にする。
取材後に峯岸は、「またよろしくお願いします」と丁寧に頭を下げた。桐光学園の選手らしい気配りのできる1年生である。
「勝った試合も負けた試合も想いは同じ」
勇退公表後、さまざまメディアから「印象に残る試合(選手)は?」という質問を投げかけられた。日大藤沢戦のあとにも同じような質問があったが、野呂監督は「数多くありますので、どれがというのはありません」と具体的な発言は控えた。
「勝った試合も負けた試合も、(監督と選手たちの)想いは同じだと思いますので」
個人のことで言えば、エース投手も、ベンチに入れなかった選手も、それぞれの道で全力を尽くしてきた。以前、書籍の原稿で、一人の投手のことを、野呂監督のコメントを引用しながらこう記したことがある。
「ピッチャーとしては不器用なタイプだけど、これとこれはやろうと決めたことを、丁寧にやり続けることができる。簡単そうで、一番難しい。手に入るまでは時間がかかっても、手に入ってしまえば、二度と崩れることはないんじゃないかと思うぐらいに身に付けることができる」
素晴らしい評価だったので、原稿には選手の名前も入れたが、「たしかに頑張ってはいるのは間違いないけど、それはほかの選手にも言えることだから……」と、野呂監督からの要望でカットしたことがある。こういう考えを根底に持っているので、思い出の選手や試合を具体的に語らないことにも納得感があった。
今年で64歳。60歳を過ぎてから、「人を育て、人を遺す」ことをより考えるようになったという。
数年前の夏の抽選会。控えの3年生が代表として抽選に臨んでいた。チームの状況を聞いたあと、何気なく「野呂監督はどんな人ですか?」と尋ねると、嬉しそうに教えてくれた。
「厳しいですけど、人として尊敬するというか、今まで会ったことがないような人で、監督さんみたいな大人に将来なれたらいいなって思います」
野呂監督にこの言葉を伝えると、「嬉しいね。宝物にするよ」とほほ笑んだ。
今後の野球部はいずれも教え子である塩脇政治部長、天野喜英コーチ、増田仁コーチらが中心となり、野呂監督の教えを引き継ぎながら、新たな歴史を築いていく。
(大利実 / Minoru Ohtoshi)
○著者プロフィール
大利実(おおとし・みのる)1977年生まれ、神奈川県出身。大学卒業後、スポーツライターの事務所を経て、フリーライターに。中学・高校野球を中心にしたアマチュア野球の取材が主。著書に『高校野球継投論』(竹書房)、企画・構成に『コントロールの極意』(吉見一起著/竹書房)、『導く力-自走する集団作り-』(高松商・長尾健司著/竹書房)など。近著に『高校野球激戦区 神奈川から頂点狙う監督たち』(カンゼン)がある。