甲子園初出場の綾羽高 千代監督が託された阪神・和田豊コーディネーターの“バット”

田中前監督の家族から預かったバット「約束を果たせた」
春夏通じて初の甲子園出場を決めた滋賀・綾羽高の千代(ちしろ)純平監督が、恩師の遺族から預かった阪神・和田豊1・2軍打撃巡回コーディネーターのノックバットの封印を10年目に解く。
「やっと約束を果たすことができました。甲子園でそのノックバットを使って練習して、攻める野球を見せたい」。2年連続して同じカードとなった決勝で、滋賀学園を下した千代監督が声を詰まらせた。
ノックバットは、前任の田中鉄也・前監督の病床に届けられたもの。和田コーディネーターは、1978年に田中前監督が率いた我孫子高(千葉)が甲子園初出場を決めた時の1年生。田中前監督はその後、1981年に近江高(滋賀)も初の甲子園に導き、1999年に創部された綾羽高の監督に就任した。2005年秋の近畿大会では、前田健太投手(カブス傘下3Aアイオワ)を擁するPL学園(大阪)に善戦するも甲子園には一歩、及ばなかった。
その後、体調を崩し闘病中の田中前監督のもとに、和田コーディネーターから「もう一度、甲子園に戻って、このバットでノックを打って下さい」と届けられた。田中前監督は、枕元にバットを立てて闘病生活を送ったが、願いは叶わず2015年8月に死去。滋賀大学を卒業後、母校の綾羽高に教師として赴任し、野球部コーチから監督に就いた千代監督が、家族から「あなたが甲子園に行って使って」とそのバットを預かった。
千代監督は、野球部が強化指定クラブになった第1期生で、2005年秋の近畿大会で前田健太と対戦した時の主将。監督就任後、2024年は準決勝で滋賀大会5連覇中の近江を9‐2(7回コールド)で倒し、初の甲子園出場に王手をかけたものの、滋賀学園に0‐5で敗れた。1年後、準決勝の近江戦は2点を追う9回に4点を奪い逆転勝ち。決勝で滋賀学園を下し、リベンジを果たした。
「田中監督には、1年目から数をこなして体に染み込ませる厳しい指導を受けました。意識してやっているうちは身についていない。無意識にやれるようになるまで、日が暮れようが終わりがないくらい教えていただきました。それがすごくためになったんです。甲子園で、あのノックバットを見てみたいですね」と和田コーディネーターは恩師との日々を振り返る。
「準決勝や決勝でずっと負け続けて、このまま甲子園に行けないんじゃないかな、と思った時も正直、ありました。私立ですが、通学生ばかりでほとんどが県内の選手です。うちで野球をしたいと言ってきてくれたのに、それができずに涙を流して卒業していく選手たちを見てきました。『滋賀県の高校野球に新しい風を吹かせたい』という思いできてくれた選手たちと、今日、それを形にできてよかったです」と千代監督。
田中前監督が亡くなり、この夏で10年。節目の年に滋賀を制した。聖地で恩師の代わりに「Tigers 86 Y・WADA」と刻印されたノックバットを思い切り振って、滋賀旋風を巻き起こすつもりだ。
○北野正樹(きたの・まさき)大阪府生まれ。読売新聞大阪本社を経て、2020年12月からフリーランス。プロ野球・南海、阪急、巨人、阪神のほか、アマチュア野球やバレーボールなどを担当。1989年シーズンから発足したオリックスの担当記者一期生。関西運動記者クラブ会友。2023年12月からFull-Count編集部の「オリックス取材班」へ。
(北野正樹 / Masaki Kitano)